さようならと笑う人
あの場所を出て、彼女を置いて走っていく。彼女にそう願われたから、仕方なくだ。
本当は、もっとかっこ悪く駄々をこねてやろうと思っていた。窓だって、ヒビさえ入れられればあとは水圧でどうとでもなるのだからとか、絶対に一人では行かないとか、君が目を離したすきに死ぬかもしれないぞとか、そんなことを言ってやろうかと思っていたのだ。
しかし、彼女の表情を見て、ここまでのことを思って、結局納得してしまった。
彼女は俺を置いていくし、俺は彼女の死因になるのだろう。
はっきりは思い出していないが、なんとなく、俺は何をやったのか察していた。そして、彼女が厳密には俺が愛した人ではない、ということも、なんとなく、なんとなくわかってしまっていた。
だから、一緒に死んでくれとは言えなかった。俺が共に死を願った人は、先程まで一緒にいた彼女ではないのだ。
走って走って、ようやく外に出られた。しかし、そこから走り去らず、誰か助けを呼ぶでもなく、圭吾はその場に座り込んだ。
建物の中で警報音が響いている。それにあわせて人の怒号や騒がしい足音も聞こえる。
それらを聞きながら、圭吾はぼんやりと空を見る。そして、ここまでのことを思い出し、打ち明けたことを反芻して、はたと思う。
「あー、全部言い尽くしたと思ったけど、一個だけ、聞いておけばよかったな。俺、君を殺したのかって。……聞いたら、どんな顔したんだろ。あの人」
意地の悪いことを思い、ふふと笑みをこぼす。
「俺は、結局、悪い奴だったなあ」
そう言って、そこから少し待った。
「いーち、にー、さーん……」
声に出しながら数を数え、彼女の足音がしないだろうかと耳を澄ませる。
研究所内が水浸しになることの方が重要なのか、追手は来なかった。遠くからサイレンの音も聞こえたが、警察ではなく消防車の方だったので、恐らく内部で火災か何かでも起きているのかもしれない。
「きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう、せーん」
そこまで数えて、圭吾はようやく立ち上がった。
彼女は来ない。
「さようなら。ありがとう。君は死体を見てからって言ったから、ここから時間をかけて、君が死んだと証明するのが本当はいいんだろう。でも、俺は悪い奴だから、その約束は守らないよ。早く行かないと、彼女にまた置いて行かれてしまうから」
流星のごとく輝いて、どこまでも駆けていく彼女を思い出す。そうして沸き立つ感情のまま、走り出した。
そこへ辿り着いた時は夜遅くだった。
空には満天の星が輝き、とはいかない。少し住宅地から離れてはいるが、海辺を走る道路の街灯があるので、明るい星しか見えないのだ。
けれど、それでもいい。己の目指す星はただ一つで、それはもうこの地上にはない。
「きっと俺が失ってしまった人、俺に生きてと願った君、どうか俺を許さないでいてくれ」
祈りを口にして、街灯も星の光も届かない、暗い底へ足を進めた。
そうして、鹿屋圭吾は星を追ってしまった。