クリスマスとはいえ平日なので、通常通り仕事があるのだが、上司の計らいで定時を過ぎると会社から追い出された。仕方なく誠治は自宅に帰り、折角なので年末の大掃除に向けての準備でもすることにした。
時折、ジングルベルと歌う声が聞こえるが、近所の子どもか、酔っ払いだろう。そういえば、昨年は歌う声があまりに煩いからと、文句を言った覚えがある。あの時はこちらが気落ちしているというのに、やたら能天気に歌いながら、ケーキを食べようだとかチキン買ってきたから食べようだとか、わあわあと騒いでいて、それがひどく腹立たしく、つい怒鳴り散らしたのだ。
ふと、誠治は首を傾げる。
今の記憶には、確かに覚えがある。しかし、誠治は昨年、誰に対して怒鳴ったのだろうか。浅田を家に呼ぶわけがないし、古沼はもっとあり得ない。かといって、姉である遥に怒鳴り散らすことなどないし、そもそも誠治はあまり人を呼ぶことなどしない。まして気落ちしていたなら、相手は押し掛けてきたと考えるべきだが、誠治の交友関係でそういうタイプの人物はいないはずだ。
では、あれは一体誰だったのか。
どうしても気になり、思い出そうとするが、どうもぼんやりとした姿しか思い浮かばない。髪の色がセンリに似ていることだけは思い出せるのだが、どんな顔か、どんな声か、男か女か、それすら思い出せない。家にあげているということは、それなり以上の付き合いがあるはずなのだが。
考えながら誠治は二階にあがる。あまりあてにはならないが、アルバムでも見れば何か思い出すかもしれないと思ってのことだ。
しかし、本来アルバムがあるであろう場所には何もなかった。誰かに抜き取られたとわかるほど、その部分だけ何もなかった。アルバムが抜かれたのは最近ではないらしく、うっすらと埃が積もっている。姉が持って行ったのかとも思ったが、それなら覚えているはずだ。あるいは誠治が忘れるほど昔に持って行ったのだろうか。
アルバムがないならば、自力で思い出すしかない。
居間に戻り、去年のことを思い出す。椅子に座ると、不思議とその時のことを思い出していく。
確か、遊びに行こうと誘われたのだ。気乗りしないと断ったら、あれが当日押し掛けてきた。それで好きにしろと言った。そこまではいい。ここまでは順調に思い出せた。しかしその先はどうも思い出すのが難しい。押し掛けてきた誰かが、何を話し、どういう行動をとったのかがひどく曖昧だ。そこだけ、靄でもかかっているかのように、白くぼんやりとした何かでしか思い出せない。
そもそも、自分は一年前、一体何をそんなに塞ぎこんでいたのだろうか。
自分で言うのもなんだが、そんなに感情に起伏がある方ではない。それが塞ぎこむほどということは、それなりに重大なことがあったはずなのだが、その事柄をさっぱり思い出せない。両親が死んだ時とて、塞ぎこむほどではなかった。では一体、どんな理由でそんなに塞ぎこんでいたのだろうか。
そういえば、先日遥の結婚式で二年前に誰か死んだと親戚が話していた。もしやそれが関係しているのではないだろうか。ならば、その二年前に死んだ誰かのことで、誠治は昨年塞ぎこんでいたのだろうか。死んだのが二年前で、昨年も塞ぎこんでいたということは、誠治にとってとても重要な人物だったのではないだろうか。
しかし、誠治はその誰かをさっぱり覚えていない。それどころか、最近気付いたのだが、昨年以降の思い出といえるものがはっきりと思い出せないのだ。強いて言えば、昨年のクリスマスくらいしかはっきりと思い出せない。これまで関わった人間などはきちんと覚えているのに、どうやって知り合ったか、全く覚えていないのだ。
誠治は立ち上がり、家の中を歩いて回った。思えば、この家には購入した覚えのないものがいくつかあるのだ。センリに貸したサンダルもそうだし、誠治はまず読まない漫画、買った覚えのない洋書、趣味ではない靴下、なぜか使えないコップ、あげればキリがない。それらを一つ一つ見て回っていて、誠治はそういえばと二階に戻る。
二階には誠治どころか誰も使っていない部屋がある。なぜかこれまで気にも止めたことがないし、入ろうとも思ったことがなかった。その部屋の前に立ち、誠治はドアノブに手をかける。
直後、誠治は息苦しさに顔をしかめた。部屋から何か異臭がしているわけではない。ただ息苦しい。あまりの息苦しさに、誠治は一度ドアノブから手を離した。すると、息苦しさは消えてなくなった。まるで開けるなと暗示されているようで、誠治は気に食わないなと顔をしかめる。
これは意地でもこの部屋の中を見てやろう。大体、己の家なのに知らない、入れない場所があるとはどういうことなのだ。
そう思いはしたものの、実際ドアノブに触れると息苦しさのため、つい手を離してしまう。どうしたものか。
考えて、誠治は一旦ドアから離れ、勢いよくドアに体当たりをした。それでドアが壊れてしまったが、部屋には入れるようになった。
「よし」
これで息苦しさに苛まれることはないだろうと、誠治は部屋に入った。
部屋の中はすっきりとまとめられていて、長らく入っていなかったとは思えないほど綺麗だった。誰かが定期的に入って掃除しているかのような様子に気味の悪い思いをしつつ、いくつかの本が置かれている机の前に立つ。本の傍らにはノートがある。
「たかい、そういちろう」
ノートに書かれている名前を呟いて、誠治は不意にバランスを崩し、机に手をついた。頭痛がし、更に頭の中に何か映像のようなものが次から次へと浮かんでは消えて行く。それらを一通りやり過ごし、誠治は顔を上げる。
「そういちろう、さん」
その名を呟き、誠治は愕然とした。
そうだ、思い出せないわけだ。誠治の思い出の全ては、彼、高井宗一郎に繋がっている。その彼を忘れているのだ、何一つ思い出せないはずだ。
しかし不思議なのは、なぜこの瞬間まで、誠治は彼を忘れていたのだろうか。何よりも大事な人であったのに。そして彼は今、どこにいるのだろうか。
考えて、誠治は親戚の言葉を思い出す。
『あの方がお亡くなりになられて』
そして、また脳裏に何かがよぎる。
それは葬式の様子だ。たくさんの花が飾ってあって、その中央には。
「ああ」
思い出して、誠治は膝をつく。
そう、確かあの日、あの日に、大事な彼は、高井宗一郎は、得体のしれない、わけのわからない、いや、そうじゃない、炎に、車、爆発? いや、それは彼と最後に見た映画で、そうじゃなくて、そうだ、彼は、彼は。
ピリリリリリリリリッ
突如鳴り響いたのは、誠治の携帯電話だ。誠治は今はそれには出たくなかった。それよりも、彼のことを思い出さなければ。
しかし、思い出そうにも携帯電話の着信音が邪魔で、うまく思い出せない。こんな夜中に煩い、誰だろうと画面を見れば、『街道千里』とある。それを見て、誠治は電話に出た。
「センリか。悪いが今は」
『開けちゃだめって言ったのに、開けちゃったんでしょ』
一瞬、センリは何のことを言っているのだろうかと、誠治は呆然とした。それから、周囲を見る。
『どっかから見てるわけじゃないよ。ちょっとこっちにお知らせが来ただけ。だめだよ。そこ入ったら君、すぐ狂っちゃうんだもの。それに、ゆっくり思い出そうって言ったのに、どうして急に思い出そうとするの』
「なんで、知ってるんだ」
『知ってるよ。そこに全部押し込めたのはボクだもの。まあ、今は知らなくていいことだ。とりあえず、そこを出なさい。じゃないと、小山田さん生きていけないから』
「何の話だ」
『今はそこまで思い出しちゃだめ。君、まだそれに耐えられないもの。発狂してまた心中未遂とかもうごめんだしね』
「だから、何の話だ」
『そうだねえ』
「ある宇宙人が、面倒くさいことに巻き込まれたって、ただそれだけの話」
肉声が聞こえたと振り返ったところで、目の前が真っ暗になった。
目を開けると、窓から朝日が差し込んでいる。寝過ごしたかと飛び起きると、隣にセンリが寝ていた。
「なんでいるんだ?」
思わず声に出したところで、センリがうっすらと目を開ける。
「おはよう」
「ああ、おはよう。なんでいるんだ?」
確か年末年始は忙しいから、クリスマスはないとかそういったことを言っていたはずだが。
そう思い首を傾げると、センリは顔をしかめる。
「酷いなあ。昨日夜に電話したじゃん。暇がちょっとできたから寄るって」
「そうだったか?」
思い出そうとするが、どうも記憶が曖昧だ。
「まあ、なんか寝ぼけてるっぽかったからねえ」
「そうか。でも鍵はどうしたんだ」
「あんたのくれたこれで」
これ、と出したのは、以前半ば押し付けた合鍵だ。
「今日は一日いるのか」
「うん。今日は一日お休みくれた。あと明日の半休ももらったから、明日の朝まではいれるけど」
「そうか」
「ところで小山田さん」
「なんだ?」
「朝ご飯は何がいい?」
「いつも通りで」
そう答えると、センリはへらりと笑い、立ち上がる。
「はーい」
センリが出ていったのを見送って、誠治はいつの間に寝たのだろうかと首を傾げる。しかし、どうもぼんやりとしか思い出せない。確か、年末の大掃除の準備をしようとしていたのだが。
「小山田さーん! 卵焼きと魚どっちがいい?」
センリの声に誠治は回想を中断し、そちらに向かった。