平型洋琴之怪

学校のカフェにあるピアノには、ある秘密がある。

 不思議な体験をした、と、今でも思う。
 私が彼女、というのもおかしいが、まあ彼女としておこう、彼女に出会ったのは、学校のカフェだ。
 学校のカフェには、何故かグランドピアノがある。私の学校には音楽関係の学科があったわけではないのだが、何故かそこにはピアノがあった。
 時折、昼休みや空き時間などに、吹奏楽団か、或いは他の音楽団体に所属しているのだろう人物が弾いていることもあったが、大体が蓋をしめられたままだ。
 そのピアノが活躍するのは、毎年十二月頃に行われるチャリティーコンサートの時だ。
 それ以外は、通りすがりの音楽家(と私は総じて呼んでいる)が手遊びに弾いているくらいなのだ。
 私は以前ピアノを習っていたこともあって、たまに弾きたいと思うと、人目を忍んでそのピアノを弾いていた。私とピアノの付き合いはそれくらいだった。

 夏休み。私は先輩の手伝いのため、研究室に通いつめていた。
 ある時、確か昼間だった、私は飲み物を忘れてしまったため、カフェにある自販機に行こうと思った。
 夏休みのため、カフェには人がいない。丁度近くの購買も休んでいる期間だったので、カフェは正に無人だった。
 ふと、久しぶりにピアノを弾こうかと思った。幸い、今は先輩の手伝いが一段落したため、暫く時間がある。
 鍵盤の蓋を開け、さて何を弾こうかと考える。
 どうせ誰もいないのだから、普段あまり大っぴらに弾けないものを弾こうと、指を動かす。
 アニメソングのアレンジ版で、動画サイトで聞いたものを耳コピで弾くことにした。
 夢中になって弾いていると、ふと人の気配がした。
 いつの間にか、ピアノの傍に女の子が立っている。
 はて、今は一応学校全体が休み中だから、部外者は入れないはずなのだが。誰か教授の娘さんだろうか。
 そう思いつつ、訊ねようと演奏を止めようとした時だ。
「待って。弾き続けて。あたし、もっとお兄さんの演奏聞きたい」
 そう言われては、手を止めるわけにはいかない、と、この時思った。
「この曲でいいの?」
「いいよ。聞いたことない曲だから、ちょっと面白いし」
「そう」
「これ、なんて曲なの?」
「曲名は知らない。アニメの主題歌らしいけど」
「あにめ?」
「見たことない?」
「多分ない」
 その言葉に驚いてしまった。
 今時、アニメを見たことない子どもなどいるのだろうか。
「見たことないの? 本当に?」
「うん。あ、お兄さん、ちょっと指がおろそかじゃない?」
 指摘され、ピアノの方にまた意識を向けた。
 しかし、不思議な子だ。
 言動は当然ながら不思議だが、恰好も不思議だ。黒いワンピースに、銀色のヒールの高い靴。女の子の年齢にしては、少し背伸びしすぎているような気もする。
「ねえ、この辺の子?」
「多分そう言っていいのかな」
「何それ」
「お兄さん、たまにここで弾いてるよね」
「え、見てたの?」
「うん、聞いてた。ずっとね。他にも色んな人がこのピアノを弾く」
「君、何処かに隠れてるの?」
「そんな感じかしら」
 曖昧な言葉だ。
「お兄さん、名前は?」
「湯河広樹。君は?」
「マルガリータって呼んで」
「外国の子?」
「そんな感じ。ねえお兄さん、今度弾く時は大人っぽい曲にして」
「え、大人っぽい曲?」
「クラシックか、ジャズ!」
「え、えー、そういうのは……」
「お兄さん弾けないの?」
「いや、弾けるけど」
 個人的に、人目があるところで弾きたくないのだ。
 拙い腕前を披露するのは気後れがする。
「じゃあ今度は、そういうの弾いてね。約束だよ」
 彼女がそういった、次の瞬間だった。
『でんわがかかってきましたよ~』
 微妙な拍子の歌が聞こえる。携帯電話の着信音に指定していた音楽だ。
 表示を見ると、先輩の文字がある。やばいと慌てて出る。
「はい、湯河です」
『今何処だ?』
「あ、カフェです」
『すぐ戻って来い。仕事ができた』
「はい、今すぐ!」
『待ってるからな』
 電話を切り、一息ついて、先程の少女、マルガリータに謝ろうと、彼女がいた場所を見る。
 しかし、そこには彼女はいない。
「あれ?」
 いくら周囲を見ても、それらしい影すら見当たらない。
 一体何処へ行ったのだろうか。
「帰ったのかな?」

 その後、私は先輩の研究の手伝いをし、その日は帰った。

 翌日、また空き時間ができた私は、誰もいないカフェに行き、ピアノの前に座った。
「ジャズ、かあ」
 クラシックは論外だ。あれは弾いてるだけで眠気を誘う。以前弾いてる最中に寝てしまい、先生に怒られたこともある。
 いや、それはいい。
「まだ弾けるかな」
 もう三年のブランクになる。果たしてうまく弾けるのやら。
 目を閉じ、耳の奥で音楽を再生する。音階は正確に思い出せる。大丈夫だ、多分。
 目を開き、一度息を深く吐き、鍵盤に指をかざす。
 最初はゆっくりと、一音一音確かめるようにしながら、徐々に本来の、というより、私が記憶しているテンポに戻していく。
「あら、意外と上手ね」
 声をかけられたが、どうも昨日とは違う。
 見ると、そこには昨日の少女と同じ恰好をした女性がいた。
「あの、あなたは」
「やっぱりわからない? 昨日会ったじゃない」
「……まさか、マルガリータ?」
「ええ」
 驚いて、思わず手が止まってしまった。すると、彼女は急に消えた。
「え?」
「ああ、だめじゃない。ちゃんと弾いて。あなたが弾いてる間じゃないと、私出てこれないんだから」
 何処からか聞こえる声に従い、今度は丁寧に弾く。
「そうそう」
 すると、彼女がまた現れた。これはどういうことだろう。
「君は、何者?」
「私? 私はね、マルガリータ。お喋りピアノのマルガリータよ」
「え、ええ?」
 今、彼女はなんと言っただろうか。お喋りピアノ?
「信じてもらえないでしょうけど、私はね、このピアノなの」
「そう、なんですか」
「敬語はやめて。対等でいきましょう。私はあなたに音色を、あなたは私に楽譜を、お互いなくてはならない」
 奇妙な言葉だったが、この時何故か私は納得していた。
「こうして、私と演奏してくれる人、二人きりでないと、私はここに現れることができない。それに、こうやって私を弾いてくれないと、演奏してくれる人は私が見えないし、声も聞こえない」
「そうなんだ」
「だから、お兄さんがこうやって私を弾いてくれて、とても嬉しいわ。こうやって、お話もできる」
「でも、どうして昨日は小さな女の子だったの?」
「あなたが弾いたのが、小さい子向けだったってことじゃない?」
「え゛」
「っていうのは冗談。明るくてテンポが速いと、あれくらいの姿になっちゃうの」
「あれ、じゃあ、曲によって、姿が変わるってこと?」
「そういうこと。だから、色んな曲を弾いてね。そして、できれば私とおしゃべりして」
 何処か寂しそうな様子に、つい、頷いてしまった。

 それからだ。私は暇な時、カフェが無人であると、必ずピアノを弾くようになった。
 ピアノを弾いている間、マルガリータは私を他愛のないことを話したり、たまに歌うこともあった。また、歌を知りたいといわれ、わざわざデジタルオーディオプレイヤーを持って行って、その歌を聞かせたこともあったし、時にはパソコンを持っていき、動画サイトを見せてあげたりもした。こんな時、校内に無線LANがあると便利だ。
 曲を弾いている間にマルガリータがいなくなると、それは人が近付いた時なので、そうなるとすぐに、ピアノの蓋を閉めた。
 人に知られたくなかったのだ。信じてもらえないだろうことよりも、誰か他の人にマルガリータの存在を知られたくないのだ。
 恐らく、恐らくだが、私はあの当時、彼女に恋をしていたのではないだろうか。

 マルガリータとの付き合いは長く続いた。
 しかし、それもある日終わりを迎えた。
「マルガリータ、話があるんだ」
 いつものようにピアノを弾きながら、ふと声をかけた。
「なに?」
「俺、もうすぐ卒業するんだ」
「……そう」
「だから、もうお別れだ」
「……そう」
「卒業式の日、またここでピアノ弾くよ。人がいてもいなくても」
「……、そう」
 それ以降、彼女は何を言っても、相槌を打つのみだった。

 卒業式(本当は正式名称は少し違うのだが)の日、私はカフェに行った。
 そこには色々な人がいる。自分と同じように、卒業式を迎えた者、それを送るために集まったサークルの仲間だろう、そういった集まり。中には親だろうか、少し年かさの女性や男性もいた。
 けれど、不思議とピアノは空いていた。
 私はピアノの前に座り、蓋を開けた。
 マルガリータが今までリクエストした曲を、全て耳の奥で再生する。
 耳の奥で再生された順に、弾いていく。
 周囲がざわついた気もしたが、全て無視した。
 ふと、歌が聞こえてきた。
 誰だろうと見ると、マルガリータがいた。思わず目を丸くすると、彼女は悪戯をした子どものような笑みを浮かべた。
「今日だけ、特別。お別れ、だから」
 その言葉が耳に届き、うんと頷いて、ピアノを弾く。耳に届いた声が、涙ぐんでいた気がするのは美化された思い出のせいか。
 彼女が、また自分が、絶対に忘れられないよう、指を運ぶ。
「ねえ、最後にあれ弾いて。私が好きだった、あの曲」
 もうすぐ終わるところでそう言われ、静かに頷き、あの曲を耳の奥で再生させる。
 合成音声ソフトで作られた曲で、別れが題材になっている歌。
 私も、彼女も好きだった曲だ。
 彼女が歌い、私が弾く。
 最後の一音の余韻が消えると、わあっと周囲から拍手が起こった。だが、それらは私の耳には届いていなかった。
「ありがとう」
「俺こそ、ありがとう。最後だから、内緒の話をしてあげるよ」
「なあに?」
「俺さ、マルガリータのこと、好きだった」
「知ってる」
 笑って、彼女はふっと消えてしまった。
「私も、ヒロキが好きだったよ」
 その一言が、耳の奥に残った。
「……知ってる」
 呟いて、涙が頬を伝った気がした。

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