現代日本ファンタジー系かな。
高校生くらいの頃に書いたもの。確かコピー本にして人にあげた記憶がある。当時読んだ恩田陸先生の『光の帝国 常野物語』に多大に影響を受けて書いたことははっきりと覚えてますね。

 樽が一つある。何の樽かは分からない。
 大きさは、人が腰掛けるには大きすぎるが、中に人が入ると窮屈になる、そのくらいだろう。
 ビルとビルの狭間に、ぽっかりとできた空き地に放置されているそれは、周りを緑色のツタで覆われていた。
 そこへ、一人の男がやってきた。男は樽の前まで来ると、樽を背にして座り、一つ息をついた。緩慢な動作でタバコを取り出し、それに火をつける。煙が細い筋のように立ち昇る。タバコを吸いながらその様を見て、男は吸い込んだ紫煙を吐き出した。
 その背後で樽が微かに胎動したのだが、男は気付いていなかった。

 『ウルタの鏡』と呼ばれる、奇妙な者がこの世に存在する。その者は、様々な人物に化けることができ、またその人物と同じことができるという。
 またその者は、この世には存在しない魔術や魔法といったものが使えるという噂もある。そしてその中でも、火を扱うものが得意だとか。更に、今は何処かの組織に仕えていて、そこで殺し屋の真似事をしているという噂もある。
 しかし、その者について正確に分かっていることといえば、腰ほどまでに伸びた、漆黒の髪を持つ女ということだけだ。
 故に多くの者は、彼女のことを『黒い焔の魔女』と呼ぶ。

 水澄絵里(みすみかいり)は、一見すると普通のOLである。髪は三つ編みにし、眼鏡をかけていて、スーツも大して着崩さず、仕事はきっちり定時に終わらせる。そんな、真面目な普通のOLに見える。
 背は少し小さく、体型はただ細いだけのものと大して変わらない。やや童顔っぽい顔は、とても美人とは言えないもので、また愛嬌があるかというと少し違う。それでも彼女は、毎日仕事をこなし、営業成績もそこそこあった。
 社内でも彼女に対しての悪い噂はない。また浮ついた噂もない。上司や同僚からの受けも良い。また彼女自身、相手が誰であろうと、分け隔てなく接していた。
 ただ、プライベートでの人付き合いが少しだけ悪いという話はたまにある。しかしそれも、大したことではない。本当に、少しだけ悪いというだけだ。
 今日も水澄は、同僚らから飲み会に誘われたが、用事があるからとさっさと帰ることになっていた。
 水澄が会社を出て、いくらか歩き、ふと薄暗い路地に入る。その時だった。
 ジムノペディ第一番が周囲に響く。携帯電話の着信メロディ用に改良された軽やかな音楽は、一つの電子音と共に消える。
『サガミニシキノ』
 携帯電話の画面に映し出されたものを見て、水澄はため息をつく。それと同時、辺りに何か圧迫感のある、奇妙な空気が満ちていく。水澄が一つ指を鳴らすと、何かが破裂するような音がする。
 音の余韻がなくなった時、そこに水澄の姿はなかった。代わりに、絶世の美女と言える女がいた。背も水澄より高く、腰まである長い髪は艶かしさすら感じさせる。
 その女がため息をつく。
「あいつら、私が普通のOLだって、ちゃんと分かってるのかしら?」
「分かっているからこそ、勤務中は滅多に連絡しないだろうが」
 背後から聞こえてきた声に、女のため息は更に深くなる。
「滅多に、でしょう? 会社を出て、一つ裏道に入ってすぐだなんて、ちょっとはOLらしく遊ばせなさいよ」
「そうはいかないからな」
 それを聞いて、女は訝しげに背後に視線をやる。しかし、そこには誰もいない。だが彼女は相手のことが見えるのか、目の前に広がる闇を少し睨む。
「ただの小さな雑貨屋の従業員が、あんた達の脅威になるとは思えないけど?」
「疑わしきは何とやらだ。不安の芽は早めに取り除きたいしな」
「でもねぇ」
 まだ何かを言おうとしていたが、水澄がその言葉を言う前に、闇が呟く。
「それに、そいつは自覚していなくても、そいつは確実に我々の脅威を育てている」
 その言葉に、女は何か引っかかりを感じた。そしてその引っかかりを、そのまま疑問として闇にぶつけることにした。
「育てている? それって、植物や動物みたいに?」
「そうだ」
「それじゃあ、そいつを殺せば、その脅威は自然となくなると?」
「いや、そうではないだろう。しかし、気休めにはなるかもしれない」
 沈思する間もなく答えるのを聞いて、女は少しだけ察した。
――こいつら、本当に始末してほしいのは標的じゃないな。恐らく、標的の背後にいるこいつらの脅威、それも標的の意識していないもの。それだと、標的はいわば引き寄せるための餌か。
 やれやれ、厄介な仕事だと、女は肩をすくめる。
「しょうがないわねえ。ホント、あんた達は臆病なんだから」
「頼むぞ、BB」
 その声と同時、辺りに満ちていた奇妙な空気が消えた。
 それを感じてか、彼女はため息をつく。
「全く、いい加減略称で呼ぶのはやめてほしいな。私の本当の呼び名は……」
 最後の言葉は、彼女の姿と共に闇に溶けてしまった。

「ったく、ついてねェ」
 そう毒づくのは、食器を主に扱う雑貨屋『SAGaMI』に勤めている錦野佳也(にしきのかや)だ。
 錦野は仕事が終わったら、彼女とデートをする予定だった。そう、昨日までは。しかし昨日、錦野はその彼女が他の男と歩いているのを目撃し、その後問い詰めたら、あっさりと非を認められ、そのまま別れることになってしまったのだ。
「ホント、ついてねェ」
 最早口癖のように出てくる言葉を聞いてか、彼の隣にいる男がくすりと笑う。普段でさえ狐のように細く吊り上った目は、今や開いているかも怪しいくらいまでに細められている。
「店長、何が面白いんですか?」
 睨むようにしながら問うと、その男、狩野社桔(かのうしゃげつ)は苦笑したまま、錦野の肩を軽く叩く。
「いえいえ。でもまあ錦野君、今日は一緒に遅くまで頑張りましょう」
「店長と二人でクリスマスを過ごせって? そりゃないでしょ」
 苦虫を噛み潰したような顔をしながらそう言うが、狩野は苦笑したまま、残念ながらと答えた。
「予定のない人は働かされる宿命なんだよ」
 その言いようにも慣れたもので、錦野はそうですかとだけ応え、それからちらりと時計を見る。時刻は午後八時だ。
「それで、今日も十二時までですか?」
「勿論だよ」
「今日はお客さん、来ますかね?」
 その問いに対し、狩野は意味ありげに口の端を歪める。
「さあ、それはどうだろうねェ」
 それを聞いて、錦野のため息は深くなった。
 結局その後、閉店まで錦野は働かされたが、客は一人も来なかった。
 バイトの時間が終わり、錦野は狩野からもらったクリスマスプレゼント――給料と明日の朝食を持って、クリスマス用に飾られた街並みを歩く。途中、彼はふと角を曲がり、あの場所に寄ることにした。
 そこは、ビルとビルの狭間を通った先にある場所で、ビルの並ぶ中でぽっかりとできた空き地だった。そしてその中央に、一つの樽がある。何の樽かは分からない。ただ、人が腰掛けるには大きすぎるが、中に人が入ると窮屈になるだろう、そんな大きさだ。そしてその太い胴は、緑色のツタで覆われていた。
 その樽を背もたれにして、錦野は座る。そして、いつものようにタバコを咥え、火をつけようとした。
「ちょっと! 今日からここは禁煙だぜ!」
 突然頭上から聞こえた声に、錦野は驚いた。見上げると、そこには奇妙な子どもがいた。肌は茶色で、髪は緑色。服装はこの冬空の下、何故かTシャツ短パン。性別はよく分からない。そしてこの子どもは、樽の上に立っていた。
「な、おま、誰?」
 動転しながらも問うと、子どもはにやりと笑う。
「おいらかい? おいらはキャスクだよ」
「キャスク? 外国から来たのか?」
 問われ、子ども、キャスクは笑みを浮かべたまま、
「そうかもしれないね。『船』に乗って来たから」
「ふ~ん。で、何でここに?」
 すると、キャスクから表情が消える。そして、冷たい無機質な声でぼそぼそと呟く。
「そんなことはどうでもいいんだ。問題なのは、俺自身のこれからだ」
「何言ってんだよ?」
 錦野が意味がわからないと言わんばかりに顔をしかめると同時、キャスクの顔に表情が戻り、笑みを浮かべる。そして、キャスクは樽から飛び降りると、錦野の前に立つ。
「で、あんたは?」
「は?」
「名前だよ、名前。こっちは名乗ったんだ。今度はあんたが名乗る番だろう?」
 そう言われ、それももっともだと思い、錦野は後頭部をがしがしと掻きながら、口を開く。
「錦野だよ。錦野佳也」
「カヤか。それで、字は?」
「知る必要あんのか?」
「別にいいじゃん。ケチケチしてないで教えてよ。どうせ減るものでもないし」
「あ~、分かったよ」
 そう言うと、錦野は地面に『錦野佳也』と書く。
「へえ、こんな字書くんだ」
「悪ィかよ」
「別に。いい名前だなと思って」
「そうかあ?」
「そうだよ」
「……まあいいや。それでお前、捨て子とかなのか?」
 すると、キャスクは首を振る。
「おいらはついさっき生まれたんだよ。だから、今日からここは禁煙だよ」
 そう言って、キャスクは未だ錦野の手の中にあるタバコの箱を指差す。それに対し、錦野は軽く肩をすくめながら、
「まあ、ガキの前じゃ吸わねェよ。肺ガンになるのは俺一人で十分だしな」
と言い、タバコの箱をビニール袋の中にしまう。そこで、キャスクはビニール袋を指差し、問う。
「ねえカヤ、君の傍に落ちているのはなんだい?」
 すると、錦野は手に持っているビニール袋を少し見せてやる。
「明日の俺の朝飯。なんだ、腹減ってんのか?」
 しかし、キャスクは首を振る。
「おいらに空腹って概念はないよ。ただ、水があれば充分だぜ。贅沢言うと、窒素やリン酸、カリウムなんてのもあると嬉しいかな」
「さり気なく、俺にねだってるのか?」
「そんなまさか」
 そうは言っているが、きっとねだっているのだろう。そう思って、錦野はため息をつく。
「ったく、にしても、水だけで腹がふくれるのか?」
「あと日光があればね。まあ、ここって昼間は意外と日光が当たるから、それは問題ないけど」
「へえ。それにしたって、水と日光だけでいい? おまけに、贅沢が窒素やリン酸、カリウムだって? お前は植物かよ?」
 苦笑しながら問うと、意外にもキャスクは頷いた。
「そうだ。おいらは植物なのさ。この樽から生まれたんだ」
 そう言って、キャスクは樽に近寄り、そのツタで覆われた太い胴を軽く叩く。それに対し、錦野は呆れたようにため息をつく。
「お前ねえ、大人を馬鹿にすんなよ」
「へえ、いくつ?」
「今年で二十一」
「まだまだ若い、青二才だな」
「お前みたいなガキに、青二才なんて言われたくない」
「ははは。そう言えばカヤ、今日は何月何日だい?」
 問われ、錦野は苦虫を噛み潰したような顔で、苦々しそうに答えた。
「十二月二十四日、クリスマスイヴだな。いや、もう十二時は過ぎたから、十二月二十五日か」
「ああ、クリスマスね。だから、こんなに寒いのか」
 その言葉を聞いて、錦野は最初から思っていたことを口にした。
「お前、その格好で寒くないのか?」
「ん? まあ、ちょっとだけね」
 そう言って苦笑するキャスクに対し、錦野は呆れたようにため息をつく。そして、おもむろに立ち上がり、着ていたコートを脱ぎ、キャスクに着せてやる。
「ったく、ガキなんだから、もっと暖けェ格好しとけよ」
 そう言いながら、錦野はキャスクに着せてコートのポケットから、メジャーを取り出す。
「身長はいくつだ?」
「え?」
「身長が分からねえと、服もらえねェだろうが。あと、じっとしてろよ」
 そう言うと、錦野はキャスクの足元にうずくまり、メジャーでキャスクの足を測る。
「18.3だから、18.5でいいか。で、身長は?」
 それを訊いてから、メジャーをズボンのポケットに入れ、錦野は立ち上がる。
「測ったことがないんだけど」
「は?……まあいいや」
 そう言いながら、錦野はキャスクの前に立ち、キャスクの頭に軽く手を置く。
「えっと、これくらいだから……、大体百四十くらいか。それじゃあ、ちょっと待ってろ」
 そして、錦野は荷物をその場に置きっ放しにし、またコートもキャスクに着せたまま、走って行った。
「行っちゃった」
 そう言ってからキャスクは振り返り、ツタの絡まっている樽に触れる。
「うん、彼みたいだよ。あとは、彼に『信用』してもらえればいいんだろう?」
 そう言って、キャスクは樽に額をつける。
 少しして、キャスクははっとしたように顔を上げ、樽の上の部分を見上げる。当然ながら、そこには何もない。だが、キャスクはその部分をじっと見つめ、やがて戸惑うような表情をする。
「どうするんだよ。そうなりゃ俺たちは……」

「店長!」
 半ば怒鳴るようにしながら呼ぶと、まだ灯りの消えていない店の奥から、いつもの着物ではなく、普通の私服を着た狩野が出てくる。
「おや錦野君。おかわりは受け付けないと」
 狩野がのほほんと言うと、錦野は首を振る。
「そっちじゃねェよ。子ども服、余ってましたよね?」
 唐突な問いに、狩野はきょとんとした。しかしすぐに立ち上がり、奥へ行った。少しして、狩野は衣装ケースを持って来て、それをカウンターの上に置く。
「この中から、好きなだけどうぞ。靴もいりますか?」
「え、ああ」
 戸惑いながらも答えると、狩野はカウンターの下から一足のスニーカーを取り出す。
「サイズは合ってるはずですよ。早く行ってあげなさい。あの子、寒がっているでしょうから」
「え、でも」
「さあ」
 強く言われ、全て知った風な狩野を奇妙に思いながらも、錦野は衣装ケースの中から適当に見つくろい、出された靴を持って、店から飛び出して行った。
 それを見送ってから、狩野は一言、
「ついに発芽したか」
と言うと、受話器を取り、どこかに電話をかける。
「あ、もしもし? はい、発芽したようです。ですから至急。ええ、はい。こちらでどうにかしますから。はい、早めにお願いします」

 空き地に戻ると、キャスクは樽に額をつけて、何事かぶつぶつと呟いている。
「おい」
 声をかけると、キャスクは驚いたのか、びくりと体を震わせてからこちらを向いた。すると、安堵したように息をつく。
「カヤ。もう用は済んだの?」
 問われ、錦野は頷き、キャスクに近寄る。そして、手に持っていた服と靴を渡す。
「ほら、服と靴。あ、着替える場所がねえな。え~と」
 考え込んでいる錦野に対し、キャスクは服と靴を受け取りながら、首を振る。
「いいよ。ここで着替えるから」
「でもお前、ここだと寒いだろうが」
「大丈夫だよ」
 そう言うと、キャスクは錦野にコートを返し、Tシャツの上から長袖とジャンバーを着、短パンを脱いで、長ズボンに履き替える。そして靴下をその場で履き、それを地面ではなく、靴に入れる。その間に、錦野は返されたコートを着ていた。
「ほら、素早くすれば寒かない」
「……そうだな」
 そう言いながら、錦野は捨てられた短パンを拾い、土を払ってやる。
「ところでキャスク、お前、家は何処だ?」
 土を払った短パンを渡しながら問うと、キャスクは首を振る。
「おいらの家はないよ。おいらはさっき生まれたばっかだって言っただろ?」
「あ~、はいはい。お前の妄想はいいから。でも、家がないのか。だったら、警察に届けるか、もしくは」
 錦野がぶつぶつと呟いていると、キャスクは錦野のコートの袖を少しだけ引っ張る。
「ん?」
 錦野がそちらを向くと、キャスクは明るく笑い、
「まあ、さっき生まれたばっかでも、行く当てはあるんだ」
「何だ。それじゃあ、そこまで送ってやろうか?」
 しかし、それに対しキャスクは首を振る。
「それはありがたい申し出なんだけど、行き違いになったら相手に悪いから、おいらはここで待っとくよ」
「そうか? じゃあ、そいつが来るまで一緒に待っててやるよ」
 すると、キャスクは少しだけ困ったような表情を浮かべる。そして、言いにくそうにしながら、
「いや、それだと、あいつが困るだろうからさ。だから、帰ってくれていいよ。大丈夫。あいつ、結構早く来ると思うし」
と言うと、錦野はそれを奇妙に思いながらも、頷いてやる。
「分かったよ。それじゃあキャスク、気をつけろよ」
「うん」
 そして、錦野はキャスクを残し、その空き地をあとにした。
 空き地から少し離れたところで、錦野はいつものようにコートのポケットに手を突っ込む。すると、何かが右ポケットの中にあることに気付いた。
 取り出してみると、それは丸められた紙切れだった。広げてみると、そこにはあのキャスクという少年が書いたとは思えないほど達筆な字で、『明日も同じ場所にいるから、遊びに来てね』とあった。
 それを見て、錦野は苦笑する。

 キャスクと出会ってから、数日が過ぎた。
 この日、錦野はキャスクの言うところの贅沢と、コンビニで買った自分の昼食を持ち、あの空き地に向かっていた。
 あれから、錦野は毎日のようにあの空き地に行き、あの不思議な少年、キャスクと世間話をしていた。自分のこと、自分が働いている奇妙な雑貨屋のこと、その雑貨屋の店長のこと、今日あったことなど、本当に他愛ないことばかりだった。
 本来ならば、出会って間もない、それも正体不明の少年にそんなことを話すものではないのだろう。しかし錦野は、そんなことは一切気にせず、ただ少年の問うことのほとんどに答えていた。
 ただ一つ、自分の過去を除いては。
 空き地に行ってみると、やはりキャスクは樽の上に座っていた。
「おい!」
 呼びかけると、キャスクはこちらを向き、手を振る。近付くと、キャスクは樽の上から飛び降りた。
「今日は早いんだな」
「今は昼休みだから、ちょっと抜けてきただけだ。それとほら、ちょっと遅いけど、クリスマスプレゼントだ」
 そう言って、錦野は手に持っている二つのビニール袋のうち、一つをキャスクに渡す。
「何これ?」
「お前の言う贅沢」
 そう言うと、キャスクは急いで袋の中身を確認する。そこには、植物の肥料用だと思われるアンプルと二リットルのペットボトルに入っている水、それとコップがあった。それを確認して、嬉しそうな顔で錦野を見る。
「マジで?」
「いらないなら返せ」
 そう言って手を出すと、キャスクは慌てて袋を抱え込む。それを見て、錦野は少し苦笑する。
「誰も取らねえって。あ、でもそれ、希釈用って書いてあったから、水とコップも入れてあるからな。絶対そのままで使うなよ」
「分かってる。ホントありがとう!」
「いいって」
 そう言いながら、錦野はまた樽を背もたれにし、もう一つの袋から握り飯を取り出して、食べ始めた。
「ああ、昼食?」
 キャスクが問うと、錦野は頷くだけだった。
「それ食べたら、仕事に行くのか?」
 少し経ってから問うと、錦野は頷く。
「それに、戻らないと店長が恐いしな」
「へえ、そんなに怖いの?」
 問うと、錦野は最後の握り飯を取り出して、その包みを開けながら、答えてくれた。
「恐い恐い。だってあの人、普段はほとんど閉じてるんじゃねえのかってくらいに細い目が、かっと開いてだな、笑顔で説教するんだぞ。あれ、変に迫力あるんだよなあ。あれより恐いもんは、そうそうないと思うぜ」
 いい終わるや否や、錦野は握り飯に噛み付く。
「そんなに、怖い人なんだ」
 小声でキャスクが呟くが、錦野はそれには答えぬまま、握り飯を食べ終わり、缶コーヒーを一気に飲み、立ち上がる。
「そんじゃあ、もう行くからな」
「仕事終わってから、また来ない?」
 キャスクに問われ、錦野は少し考える。しかしやがて、キャスクの方を向き、少し困ったような表情で笑い、
「あんまり遅くなかったらな」
と言う。しかし、それでもキャスクは満足したのか、明るく笑う。
「それじゃあ、夜中の十二時まではここで待ってるから」
 その言葉に、錦野は少し驚く。
「おいおい、いいのか?」
「いいんだよ。ほら、さっさと行かないと、店長が怖いんじゃないの?」
 そう言われ、錦野は腕時計を見る。すると、あと五分で狩野が言った昼休みが終わろうとしていることに気付く。
「やべ! そんじゃあ、またな!」
「うん、待ってるから!」
 そして、錦野は後ろを振り向くことなく、空き地から走り去って行った。

 店に戻ると、運良く狩野はいなかった。そして、錦野は何事もなかったかのようにカウンターに戻る。すると、そこには誰かが座っていた。一瞬、錦野は狩野かと思ったが、違った。
 長い髪を弄びながら、その人物はカウンターの椅子に座っていた。そしてこちらを見ると、口の端を歪める。その顔や仕草に、錦野は見覚えがあった。いや、なければおかしいと言っても過言ではない。
「し、繁藤さん?」
 錦野が名を呼ぶと、その女は椅子から立ち上がる。
「お久しぶり、錦野君」
 そう言って、女、繁藤は錦野の手を取る。
「また一段と男前になったんじゃないの?」
 繁藤の言葉に、錦野は顔をしかめる。
「冗談は止して下さいよ。俺なんて典型的な日本人の顔なんだから」
 それに対し、繁藤は片方の眉を器用に跳ね上げる。
「あら、そうでもないわよ? 錦野君って、結構いい顔してると思うんだけど」
「そうやって俺を褒める時って、大体男にフラれた後ですよね」
 すると、繁藤は痛いところを突かれたと言わんばかりに顔をしかめる。
「図星?」
 意地悪げに問うと、繁藤は苛立たしげにため息をつきながら、カウンターに座る。
「あ、カウンターに座らないで下さいよ」
「煩いわねえ。ええ、そうですよ。男にフラれたの。全く、私の何処に不満があるっていうのよ? 世の男どもが理想とする、ボンキュッボンな体型なのに」
 そう言いながら、繁藤は足を組む。そして、着ている黒いコートからタバコを取り出し、それを口に咥える。しかし、それに火を点けようとした時、タバコは錦野に奪われた。
「店内禁煙。表にある貼り紙、読みませんでした?」
 にっこりと笑いながらそう言うと、繁藤は再びため息をつく。
「やあねえ。タバコの一本や二本、ケチケチしないでちょうだいよ。それに、あんただってタバコ吸うじゃない」
「俺は趣味で吸ってるから、別に吸わなくても平気だし」
 錦野がそう言うと、繁藤は肩をすくめる。そして、タバコを箱に戻し、カウンターから飛び降りた。
「ホント、錦野君って変な体質よねえ。何の中毒にもならないんでしょう?」
 すると、錦野は苦笑しながら頷く。
「粗方手ェ出したけどね。タバコ、酒、シンナー、覚醒剤。睡眠薬とかも試してみたけど、全部効かなかったからなあ」
「すごいわねえ。何だか体内に、人が持ってはならない、解毒剤を持ってるみたい」
 その言いように、何故か錦野は寒気を覚えた。
「それって、俺が人外だって言いたいわけ?」
 錦野が茶化したように問うと、繁藤は笑いながら首を振る。
「違うわよ。ただ、そうだとしたらすごいと思わない?」
「……夢のような体質だとは思うけど」
 少しためらいながらも答えると、繁藤は満足そうに頷き、
「でしょう? ほら、私って元が薬剤師じゃない。だから、あんたはとっても興味深いのよ。ねえ、三食昼寝つきで、おまけに美人なお姉さんが色々とお世話してくれるって言ったら、実験台になってくれる?」
と言う。それに対し、錦野は冷や汗が背中に流れているのを感じながらも、にっこりと笑い、きっぱりと答えた。
「丁重にお断りさせていただきます。っていうか、繁藤さんの人体実験って、ちょっと怖そうなんですけど」
「あら、あの狐面(きつねづら)がやることに比べたら、可愛いもんよ」
「おや、そうですか? 私としては、繁藤さんの方が鬼畜だと思いますけど?」
 その言葉と同時、狩野は店の奥から出てきた。
「あ、店長」
「お帰りなさい、錦野君。私の記憶が確かなら、昼休みは十分前に終わってると思ったんですけど?」
 そう言って、狩野は薄らと目を開く。すると、錦野は顔を引きつらせ、強張った笑みを浮かべながら、
「いや、ちょっと、話し込んじゃって」
と弁解する。その様子に、繁藤は少しだけ眉を顰(ひそ)める。
「話し込むゥ? 錦野君、まさかあんた、私に内緒で彼女ができたんじゃないでしょうね? ねえ、どうなの?」
「まさか! 彼女とかだったら、もっと明るい顔してるって」
「まあそちらへの弁解はいいとして、それで、遅刻したことに対しての言葉は?」
 狩野がそう言うと、錦野はすっかり肩を落とし、
「す、すいませんでした」
と小声で謝る。
「まあ、分かればいいです。それで繁藤さんは、今日はどのような用で?」
 狩野が問うと、繁藤は首を振る。
「大して用はないのよ。まあ強いて言えば、二人の顔を見に来たってところかしら」
「おや、鏡の方ではないんですか?」
 その言葉と同時、繁藤は狩野を睨む。
「お得意の、何もかもお見通しってヤツかしら?」
「いえ、そういう噂を聞いただけですよ」
 飄々とした様子でそう答えると、繁藤は肩をすくめ、くるりと振り返る。
「今日は帰るわ。でも、正月頃にまた来るから。だから、それまでは元気でいてね。錦野君」
 そう言うと、繁藤は帰って行った。

「そう言えば錦野君、年末年始はどうなんです?」
 狩野の問いに、錦野は苦笑する。
「店長、俺が暇なの、分かって言ってるでしょ?」
「やだなあ、そんなことはないですよ。でも暇なら、店に来てもらいましょうかね」
 すると、錦野は狩野の方を見て、口の端を僅かに歪め、
「祝日手当、出ますか?」
と問う。それに対し狩野は、にっこりと笑みを浮かべる。
「年越しそばとおせち、でどうです?」
「あとお年玉も」
「…………仕方ないですねェ」
 暫しの沈黙のあとにそう答えると、錦野は拳を握る。
「おっしゃ!」
「その代わり、その日は忙しいから、その分働いてもらいますよ」
「分かってますって」
 笑顔で答えてから、ふと時計を見る。すると、閉店する時刻、つまりバイトの終わる時間になっているのに気付く。
「それじゃあ店長、閉店時刻なんで、俺帰ります」
 そう言って、錦野は手早く着替える。そして、店を出る時に、ドアにかかっている札を引っくり返し、店を飛び出した。

 あの空き地に行ってみると、やはりキャスクは樽の上に座っていた。
「おい、キャスク」
 呼びかけると、キャスクは錦野の方を向き、樽から飛び降りる。
「待ってたんだぞ!」
「分かってるって。でもお前、こんな遅くまでこんなところにいて、大丈夫なのか?」
 すると、何故かキャスクは自信たっぷりに答える。
「大丈夫に決まってるだろ。で、今日はどうだったんだよ?」
「ん? まあ、いつも通りさ。ただ、今日は常連さんが来たな」
「常連? 誰だよ?」
 興味津々といった様子で問われ、錦野は苦笑しながら答えた。
「繁藤さんって言って、長い黒髪が特徴の美女」
「!? し、しげとう?」
「ああ。何だ、知り合いか?」
 意外だと言わんばかりな様子で問うと、キャスクは顔をしかめながら、
「まあ、似たようなモンだよ。それでその繁藤、何か言ってたか?」
「は? まあ、次は正月頃に来るとか言ってたな。……あ! 何か、俺に次会うまで元気でいろとか言ってたな。何か、あの人らしくないから引っかかってたんだよ」
 すると、キャスクは深刻そうな顔で錦野を見て、
「そいつ、他に何か言ってなかった? 例えば、鏡とか」
「おう、それなら店長が言ってたぞ。鏡の方じゃないのかって」
 それを聞いて、キャスクは青ざめた。いや、青ざめたというのでは生ぬるい。もう青いというよりも、紙のように白い。
「おい、どうしたんだよ? まさかこの寒空の下、ずっと俺を待ってたから風邪引いた、なんてことはないよな? おい、キャスク」
 錦野が話しかけると、キャスクは白い顔色のまま、錦野の腕を握る。
「なあカヤ、お前正月は、どうする気なんだ?」
「? どうするって、その日も変わらず店にいると思うぜ。お前はどうするんだよ?」
「……そうか。なあカヤ、おいらも一緒にいて、いいかな?」
 突然の言葉に、錦野は驚いた。
「え、いや、ちょっと待て。お前、この前言ってた当てとやらはいいのかよ?」
 しかしそれに対し、キャスクは答えなかった。ただひたすらに、錦野の腕を握り、じっと錦野の顔を見上げる。
 その様子にただならぬものを感じたのか、錦野は諦めたようにため息をつく。
「明日、店長に訊いてみる。もし店長がいいって言ったら、別に構わねェ。だけどダメだって言われたら、その時は諦めろよ?」
 その言葉に、キャスクは少しだけ間を置いてから、静かに頷く。

 翌日、実に平穏といえる午後だった。
 錦野は読書をしている狩野に、恐る恐るといった様子で声をかける。
「あの、大晦日から元日まで、俺、働くことになってたじゃないですか。その時に、ちょっと正体不明なガキを一人、連れて来ていいですか?」
 錦野の話を一通り聞いて、手元の本から視線を外し、錦野の顔を見る。
「正体不明の子どもを?」
「はい。そいつが、どうしても正月は一緒がいいって言うもんですから。やっぱり、ダメですかね?」
 恐る恐ると言った様子で問うと、狩野は開いたままのページを睨みながら、暫し考え込む。
 一分か、二分か。そのくらい経っただろう頃に、狩野は錦野の方を見る。そして、にこりと笑みを浮かべた。
「まあ、いいでしょう。どうせ錦野君のことだ。私がダメだと答えたら、その日休むつもりでしょう?」
「え、ええ。まあ」
「それだったら、おまけつきであろうと従業員を確保できる方がいいですからね。それじゃあ錦野君、大晦日から元日まで、その子つきで働いて下さいね」
「あ、はい」
 そして、狩野はまた、カウンターで本を読み始める。

 大晦日。
 その日は、何故かいつもより忙しかった。
 まず、常連が一通り来る。それも、手土産や土産話などを持参して。そして狩野から何某かの品物を受け取り、店を出て行く。次に、いつもは殆ど客など来ないというのに、この日だけはいつもより客の数が多かった。それも二倍三倍などという可愛らしい数ではない。十倍と言っても過言ではないほど、客が多かった。
 どうやら、狩野が珍しく広告を出したらしい。
 更に言うならば、よく分からない客も多い。まあ、それはいつものことだったが。

 夜になり、店が一段落したところで、錦野はふと、今日思っていた疑問を口にした。
「店長、どうして今日に限って、広告なんか出したんですか?」
 問うと、狩野はにこりと笑い、
「何言ってるんです。年末出さないで、いつ出すんですか。年末年始といえば、庶民の財布の紐が一番緩くなってる時ですよ」
「そうですかねえ。俺なんかは、年末年始なんて特に財布の紐が固いけど」
「それは錦野君と庶民のライフスタイルが違うからですよ」
「何かそれ、馬鹿にされてる気がするんですけど」
 やや睨むようにしながらそう言うと、狩野は笑みを浮かべたまま、
「やだなあ、馬鹿になんかしてませんよ。ただ、ちょっと見下してるだけですよ」
と言う。すると錦野は、少し据わった目で狩野を見る。
「それを一般的に、馬鹿にしているって言うんですけど」
 低い声でそう言うと、狩野は軽く声を立てて笑う。
「あはは。まあ、細かいことを気にしちゃあいけませんよ。それより錦野君、そろそろ例の少年をお迎えに行く時間じゃありませんか?」
 そう言われ、錦野はふと時計を見て、声を上げる。
「あ、ホントだ。それじゃあ店長、ちょっと行って来ますね」
「はい、いってらっしゃい」
 そして、錦野は外に出て行った。

 外は身も凍るような寒さで、錦野はコートを持って来れば良かったと、少しだけ後悔する。しかし、寒いのはあの少年も同じだろうと思い、体が温まるよう、半ば走るようにしながら、空き地へ向かう。
 空き地に行くと、やはりキャスクは樽の上に座っていた。しかし今日は、声をかける前に錦野に気付き、樽から飛び降りると、駆け寄って来た。
「遅い! 五分も遅刻だぞ!」
 キャスクがそう叫ぶと、錦野は苦笑して、軽く謝る。
「悪い悪い。それにしても、お前時計がないのに、何でそんなことが分かるんだ?」
 すると、キャスクは茶化したように答えた。
「体内時計って言ったら、笑うだろ」
「真面目に笑ってやる」
 少し怒ったような表情でそう言うと、キャスクは苦笑する。
「冗談だよ。まあ、ちょっとした秘密があってね。あの樽の上には、時計が埋め込んであるんだ」
「……マジで?」
「おいらが一度でも、カヤ相手に嘘を言ったことがあるかい?」
「いや、お前の場合、嘘かどうか微妙な線だからなあ」
「酷いなあ」
「まあ、別にいいけど。どうせ俺は、あの樽の上によじ登るなんてできないからな」
「人は登れないようになってるからね」
 それを聞いて、錦野は驚いた。
「登れないのか?」
「人はね。ただ、おいらは人じゃあないから、登れるけど」
「……お前の言うことって、マジなのかウソなのか、よく分かんねえ」
 複雑そうな表情でそう言うと、キャスクは軽く首を傾げる。
「そう?まあいいじゃん。そこは、カヤがおいらを信用するかどうかの話だ。それよりカヤ、寒いからさ、そろそろ行こう?」
「ああ、そうだな。それに早く行かないと、店長にまた叱られそうだ」
 そう言って、錦野は軽く肩をすくめる。
「あはは。それじゃあ、ちょっと急ごうか」
「そうだな」
 そして、二人は空き地から去って行った。

 ゴトゴトという音が風に混じる。
「だから、殺人鬼と宇宙人、どっちを信じるかって」
 カランッと、何かが落ちる音が暗闇に響く。
「どっちも胡散臭ェよ。本当にどっちかしかダメなのか?」
 何かを蹴り飛ばすような音がする。
「ダメだって。本当にどっちか」
 そして、ギ、ギギッという音の後、大きなものが落ちていく。
「うーん、そうだなあ」
「カヤ、止まって」
「は?」
 錦野がキャスクの方を向くと同時、錦野の背後に何かが落ちた。轟音と共に着地し、噴煙を辺りにばら撒いたのは、有名企業の広告の看板だった。
「な、これ」
 錦野が驚いているのをよそに、キャスクはその看板をじっと睨む。
「やっぱり、動き出したか」
「キャスク?」
 錦野が訝しげにキャスクの方を見ると、キャスクは首を振る。
「何でもないよ。早く行こう」
 そう言って、キャスクは錦野の腕を引っ張る。
「おい、そんなに引っ張るなよ!」

 とあるビルの屋上に、一人の女がいた。黒い着物を着ているその女は、ビー玉のような物を冷たい目でのぞいていた。
「流石に、あれくらいじゃ勘付かれるか。さて、次はっと」
「困るわあ」
 その声を聞いて、女は振り返る。そこには、白い中華服を着た男がいた。男は口の端に笑みを浮かべていて、とても困っているようには見えない。しかし、女はその男を見て顔をしかめる。
「困るのはこっちよ。白茅(はくぼう)の水仙殿が、一体どのような御用で? 言っとくけど、邪魔するなら容赦しないから」
 すると、男はやんわりと首を振る。その所作や動きに合わせて揺れる薄い茶髪、服の裾、その全てが酷く緩慢に動いているように見える。
「邪魔はせえへんよ。ただ、あの男を殺されると困ると言うとるだけです」
「あら、どうしてかしら?」
 からかうように問うと、男は垂れ下がった目を細め、やんわりとした声で告白した。
「実は、お客はんから第三種保護指定物扱いされとりましてね」
「第三種? 彼が? でも、たかが第三種程度、あんたみたいなのが出る幕じゃないわ。もっと下っ端が来るんじゃない?」
「そうとは限らへんよ」
「……と言うと?」
 不審そうに女が問うと、男は少し首を傾げながら答える。
「あんたさんも知っとるやろ? 彼の持つ、人間離れした回復力、いや解毒力とゆーべきか。あれはたとえ第三種扱いかて、貴重なモンや」
「まあ、そうね。まさかあんた達、あの子を実験台にでもするつもり?」
 しかし、男は首を振る。
「あの体質を元に、夢の万能薬を作ろうゆー話が出とるだけです」
「実験台と大して変わんないじゃない」
 冷めた声でそう言うが、男はやはり首を振る。
「いいや、上手くいけば、彼は救世主になる」
「失敗すれば、ただのヤク中ね。そうやって、今のところ何人をダメにしたわけ?」
 その問いに対し、男は楽しそうな笑みを浮かべる。
「まだ六人でっせぇ。せやけど、彼ならきっと上手くいく」
「あら、何処にそんな確証が?」
 女が問うと、男は口の端にある笑みを歪んだものに変える。
「彼、あんたさんのお仲間でっしゃろ? おんなじ、ウルタ人種。それも、珍しい後天性完全種の」
「知ってたってわけね」
「せやないと、あんたさんがあっこまで彼に構う理由が分かりまへん。大方あんたさんは、大人(たいじん)に調査を頼まれたんでっしゃろ。ほんで、彼を見極める前に、あんたさんのところに暗殺の依頼が来やはった。そうでっしゃろ?」
「あんた、絶対に女にモテないわよ」
 悔しそうに女がそう言うと、男はけらけらと笑いだす。
「図星ってことでっせー」
「煩いわねえ。それより、あんたの方はどうなのよ? 見たところ、ただ単に彼を捕獲しようってだけじゃないでしょう。それこそ、大人から何か頼まれたんじゃないの? 大方、捕獲とはほぼ正反対の依頼を」
 すると、男はくすりと笑う。
「黒い焔の魔女も、相変わらず痛いところを突きまんねんなあ」
「じゃなきゃ、この二つ名は名乗れないわよ」
「それもそうやね。ほなあ話しましょ。実は、こっちも困っとるんです。どちらの依頼をひいきすべきか」
 それを聞いて、女は意外そうに首を傾げる。
「あら、大抵は大人の依頼を取るあなたが、珍しいわね。よっぽど困った客と見た」
 その愉快そうな声を聞いて、男は苦笑する。
「まあそうやね。捕獲の方の依頼人は、社屋さんで」
 それを聞いて、女は納得したように頷いた。
「ああ、社屋ね。確かにあそこの仕事は、ちょっと断りづらいからねえ」
「でっしゃろ?」
「それで、大人は何をしろって?」
「ええ、実は社屋とほぼおんなじ依頼で」
「じゃあ私の読み外れじゃない」
 ふて腐れたように女がそう言うと、男は首を振る。
「いや、捕獲する時の条件がちゃうんや。社屋は確実に生きたまんま、大人は生死を問わへんとぬかして。ほんで、大人はもう一つ依頼をした」
「何よ?」
「樽をぶち壊して来いと」
 静かにそう言うと、女は首を傾げる。
「樽?」
「ええ、どの樽かは分かりまへんが」
「ふーん」
 そこで、ふと女は地上を見下ろす。
 そこには先ほど殺し損ねた男と、その傍にいる少年がいた。そしてその二人は、恐らく、水仙と呼ばれるこの男が放ったと思われる、黒い影に囲まれていた。
 少しの間それを見ていると、ふと奇妙なことに気付いた。
「ねえ水仙、あんたの符術は見破るのが難しいし、その上倒すのも面倒だわ」
「突然、何どすか?」
「……樽ってのが分かったわ」

 錦野は、先ほどから自分が狙われているということに気付いていた。
 元々、自分が狙われるのは生まれた時から決まっていたようなものなので、今更慌てたりはしなかったが。
「またか」
「何が?」
 思わず呟いた言葉を問われ、錦野は苦笑しながら首を振る。
「何でもない。ただ、最近は不運だなあと思っただけだ」
「不運?」
「そ。この前は宝くじの当たりくじをなくしたし、その後カラスの糞が洗濯物についてて、あ、電車で痴漢にあったこともあったな。とりあえず殴っといたけど」
 それを聞いて、キャスクは軽く顔をしかめる。
「うわ、ホント不運だね」
「だろ?」
 キャスクと会話しながらも、錦野は辺りを警戒していた。
――早く店に戻った方がいいよな。あそこなら、そうそう攻撃できないだろうし。
 その時だった。
 凍えるよう何かが、背に突き刺さる。その何かに、覚えはあった。いや、幾度も感じてきたものだった。
「キャスク、走れるか?」
 突然の問いに、キャスクは首を傾げる。
「別に、走れるけど。何で?」
 しかしそれに答えることなく、錦野はキャスクの手を取り、走り出した。すると建物の影から、黒い影のようなものが人型を取り、二人をのろのろと追いかける。
「何あれ」
 キャスクが問うと、錦野は平然とした様子で説明する。
「まあ、一般的な観点からいくと、ストーカーってことになるんじゃないかな。ただ、ちょっと過激だけど」
 説明が終わるとほぼ同時、前方にあった電灯が破裂する。そしてその破片が、こちらに向かって飛んできた。
「伏せろ」
 そう言いながら、錦野はキャスクの頭を低くさせる。
「何、あれ」
「言っただろ? ちょっと過激なストーカー。事情はよく分かんないけど、俺を狙ってるらしい」
 それを聞いて、キャスクは錦野の方を見る。
「狙ってるって、殺すってこと?」
「いや、その辺はどうもはっきりとは」
「何だよ、それ」
 眉根を寄せてそう言うと、錦野は肩をすくめ、諦めたような声を出す。
「仕方ないだろ。向こうさんと話したことなんてないんだから」
「で、カヤはどう思ってんの?」
「いや、別にどうも。強いて言うなら、もう慣れたって感じ」
「違うよ。あれが迷惑かどうかって話」
 すると、錦野は顔をしかめながらも頷いた。
「そりゃ迷惑だよ。あれのせいで、普通の生活ができないんだし」
「そっか。じゃあ、おいらがどうにかしてやるよ」
「お前、あれをどうやって倒す気だよ?」
 呆れたように問うが、それには答えず、キャスクは尚も続ける。
「その代わり、おいらのとこのカミサマを助けてやってほしいんだ」
 それを聞いて、錦野は驚いた。
「はあ!? お前のところの神様を助けてほしい? 俺は普通の男だぞ。他の親戚は別として、俺は何も出来ない」
 しかし、キャスクは首を振る。
「カヤにしか出来ないことがある。おいらが言うんだから、間違いないよ」
 すると、錦野はため息をつく。
「お前が俺の何を知ってるって言うんだ」
「カヤの過去については何も知らないよ。カヤが何も話そうとしないから。けどおいらは、今のカヤについては、ある程度知ってるよ。いや、誰よりも知ってる」
「それだけで、俺になら出来ると?」
「うん」
「……たとえ、キャスクの話を信用するとして、本当にあのストーカー軍団をどうこう出来るのか?」
 すると、キャスクは自信たっぷりに笑みを浮かべる。
「出来るよ。ただし、ここじゃあ分が悪いけどね。カヤ、おいらを信じてくれるかい?」
「まあ、今他の誰よりも信用することは出来るな。だけど」
 その言葉は、それ以上続かなかった。
 目の前に黒い影が立ちふさがった。後ろや左右を見ても、黒い影がいる。避難場所として当てにしていた『SAGaMI』は、次の角を曲がればすぐだ。しかし、この状態ではその曲がり角まで辿り着けそうにない。
「キャスク、そこの角を曲がって、その先にある店の」
「大丈夫。おいらに任せて。たかが影、どうってことないよ」
 錦野の言葉を遮ってそう言うと、キャスクは錦野の手を握ったまま、前へ歩き出す。それを黒い影が阻もうとする。それに対し、キャスクは黒い影の胸辺りに手を突っ込み、中から何かを取り出した。
 影と同じく、黒い札だった。
 札が取り出されると、影はしぼんで消えてしまい、札にあった白い模様が消える。
「カヤは真似しない方がいいよ。逆に引き込まれると思うから」
「は? っていうか今、一体何を?」
「本体を取り出しただけだよ。それよりカヤ、急ごう」
 そして、二人は歩き出す。

「樽ってのが分かったわ。なるほど、奴らが恐れているのもあれね。それにしてもあの子、とんでもない物を育ててるじゃない。いや、正体は知らないみたいね」
「何を言っとるん? それに、樽ゆーのは一体」
「あんたも知ってるでしょう? 熟成魔術よ」
「熟成魔術? 何や、それは?」
 それを聞いて、女は呆れたように目を瞠る。
「知らないの? 魔女狩りの終結する少し前に流行った、時限式のヤツよ」
「生憎、わいは魔女や魔法使いではあらしまへんさかい」
 すると、女は納得したように頷いた。
「そういやあんた、仮にも『仙人』だったわね。じゃあ説明するわ。熟成魔法は、ある時間、またはある条件を満たすまでは決して発動しない魔術よ。そしてそれらは、時が来るまで封印される。時が来る前に封が解かれてしまうと、魔術は発動せず、そのまま腐敗してしまうけど、もし時が来てしまえば、魔術は世に放たれてしまう」
「たかが魔術でっしゃろ。放たれても、別に脅威では」
「そう思ったら痛い目にあうわよ。この魔術のすごいところは、大した魔力やスキルを持たない魔術士でも、この世界を破裂させるほどの魔術を使えるところよ」
 それを聞いて、男は目を見開く。
「何やて?」
「驚きでしょ?」
 その言葉に男は同意する。
「たとえそれがほんまだとして、なしてそんな威力が出るん?」
「あら、不思議ではないわ。この魔術の最大のキーは、時間をかけるってことなの。時間をかけて、あれはゆっくりと魔力を溜め込む。そして時が来たら、溜めた魔力と描かれたスキルを使って、魔術を放つ。放たれるまでの時間が長ければ長いほど、威力は高いわ。酒は長く熟成させることで味を増す。それと同じことなの」
「せやけど、どーして樽なん?」
「多くの者が、封印する為の容器に樽を選んでいたからよ」
 答えると、男は地上を少し見て、不思議そうに首を傾げる。
「でも、あれは人や」
「ええ、確かにあれは人に見えるでしょう。けれどね、熟成魔術は何も術だけを樽に寝かせるわけじゃないわ。時には強力な使い魔や、本来なら呼べない悪魔なんかを呼び出すために熟成魔術を使うこともあるのよ」
「何処にも悪魔が呼び出されたゆー記録は残ってまへんけど」
 すると、女は肩をすくめる。
「魔女狩りが終結した時に、熟成魔術の大半は処分するように指示が出されたの。だけど、中には当然溜め込む人もいるわ。そんな人は全て」
「処分されたと?」
 男が代わりに言うと、女は頷く。
「そういうことよ。でも、一人だけ未だに処分できていないのがいる」
「どなたはんです?」
「マリー・オーンズ。いえ、ルート氏と言った方が分かりやすいわね」
 それを聞いて、男は驚いた。
「ルート氏!? あれは魔女狩りの時に死んだはずじゃあ?」
「いいえ、まだ生きてるはずだわ。もっとも、あれだけの呪いにまだ耐えていられたらだけど」
「呪い、とゆーと?」
 問うと、女は自分の髪を弄りながら、淡々と答える。
「二十年ごとに化け物になる呪い。それも、彼女が最も軽蔑する化け物よ」
「せやけど、それがなして熟成魔術をここに?」
「恐らく、呪いを解くためでしょう。いくらオーンズと言えど、あの呪いを単独で解くのは難しいだろうし。もしそうでないとしても、あの坊やには何かある。オーンズが仕掛けた何かが」

 角を曲がると、そこには何もなかった。まるで、最初から何もないかのように、そこは空き地となっていた。
「カヤ、ここ?」
 キャスクが問うが、錦野は呆然としていた。頼りにしていたものがなかったのだ。
 それに、この場所に店がないなら、錦野は明日から職がない。となると、また明日から職探しをしなければならない。もし職が見つからなければ、いつかは飢え死にする可能性とて出てくるだろう。
――このまま死んでも、大して変わりはないな。
 悲観的な考えだが、ふとそう思ったのだ。
「カヤ! あいつらが追いつくよ。もう当てはないの?」
「ないな」
 すると、キャスクは錦野の袖を引っ張る。
「だったら、おいらについてきて! 大丈夫、カヤを殺させはしないよ」
「だけど、このままじゃいつか死ぬな」
 しかしそう言うと、キャスクは眉を顰めながらも首を傾げる。
「何言ってんだ。死なないよ。カヤはこれから、おいらのカミサマを助けてくれるんだろう? そうしたら、カヤは一生何も心配しなくていいんだ!」
「何の根拠があるって言うんだ?」
 冷たく問うと、キャスクはいやに自信に満ちた様子で答える。
「根拠はない。だけどカヤ、おいらを信じて」
 その様子を見て、錦野は少し不安だったが、何となく、信じようかと思った。
「……本当に大丈夫なんだろうな?」
 念を押すように問うと、キャスクは力強く頷いた。
「約束する。だから信じてよ」
「しゃあねえなあ。お前に任せる」
 それを聞いて、キャスクは嬉しそうに頷いた。
 そして、二人は走り出した。それを黒い影ものろのろと追う。

 キャスクに先導されて着いたのは、いつもの空き地だ。樽はこの日も、青々としたツルに覆われていた。
「ここが心当たりか?」
「うん。少し待ってて。叩き起こすから」
「は?」
 首を傾げている錦野を放って、キャスクは樽に近付き、飛び乗った。そして、樽の上で何かを動かしているようだった。カチカチと調子よく聞こえてくる音に、迷いのようなものはない。
 手持ち無沙汰になっている錦野は、何となくその場で立ち止まっていた。
「あのさあ、カヤ」
 突然呼ばれ、錦野は首を傾げる。
「何だよ?」
「何でカヤは、自分が狙われてるって、分かってたんだ?」
 問われ、錦野は少し悩んだ。
 答えるべきか、否か。
 だが、すぐに悩むのは止して、答えることにした。
「俺は昔っから狙われてたからな」
「狙われてた?」
「おう。まあ、それは俺が生まれる時から決まってたんだよ。何たって、親が悪魔に頼み込んで生まれたガキだからな」
 それを聞いて、ふとキャスクは作業の手を止め、錦野を見た。
「カヤの両親って、悪魔崇拝者だったの?」
「ちげーよ。純粋なキリスト教徒だった。だけど、おふくろが子ども産めねー体になっちまって、二人はそれでも子どもが出来るようにって、毎日教会で祈ってた。それを悪魔が聞きつけて、願いを叶えてやるから、女が生まれたら自分の妻に、男が生まれたらその魂を寄越せって言ったんだ」
「契約を持ちかけたってこと?」
「そういうことだ」
「それで、二人は悪魔と契約した」
 少しうつむいて、錦野は静かに呟いた。
「そして生まれたのが、俺だった」
「……それで?」
 問うと、錦野は顔を上げ、樽の方へ近寄った。
「二人は俺が生まれて、嬉しかったのは勿論だけど、それよりも恐れていた。いつか、悪魔が俺を殺しに来る。俺の魂を奪いに来る。二人は前よりも熱心に教会へ通った。いつの間にか、悪魔祓いをする方法を勉強し始めた」
「その悪魔を殺すために?」
「ああ」
 答えて、樽の前で止まる。
「それで、それからどうなったの?」
 問いながら、キャスクは再び手を動かし始める。
「俺が十六の時だった。悪魔がやってきて、俺の魂を寄越せといった。そして二人は、それを拒んで、悪魔と戦った。でも、付け焼刃じゃやっぱり敵わない」
「二人は死んだの?」
 問うと、錦野は樽に触れながら、頷いた。
「ああ。で、俺も魂取られそうになったんだけど、その時に狩野さんが助けてくれたんだ。そして、悪魔は逃げて行ったけど、いつか必ず魂を貰いに来るって言ってた」
「そう」
「そして、それから何度も狙われて、その度に狩野さんに助けられた。高校卒業してからは、もっと酷くなった。俺が狩野さんのところで働き始めたのは、その頃からだ」
「そして、今も狙われている?」
 問うと、錦野は頷いた。
「そっか」
 神妙な声でキャスクが返事してから、少し経ち、ふと錦野はくっと笑う。
「何てな」
「へ?」
「いや、冗談なんだ。悪いな」
 それを聞いて、キャスクは錦野の方を見る。
「冗談?」
 呆然とした様子で問うと、錦野は笑いながらも頷く。
「そう。全部冗談。まあ俺が狙われてるのは、昔からなんだ。それは本当。でも理由は知らない。きっと親のせいだろうけど、その親は当の昔に死んでる」
「……本当かと思った」
「違うって。キャスクがあんな簡単に引っかかるなんて、思わなかったけどな。よく考えれば分かるだろ? キリスト教徒の前に、悪魔が現れるなんて」
「たまにそういう話があるから、本当だと思ったんだよ」
 バツが悪そうにそう言うと、キャスクは樽から飛び降りる。そして、錦野の前に立った。
「もういいや。でもカヤ、お願いがあるんだ」
「何だよ?」
 まだ笑みを浮かべたまま問うと、キャスクは樽の方を向く。
「ここに血判を押してほしいんだ」
 そう言って、キャスクはツルを掻き分ける。すると、樽の中央辺りに奇妙なレリーフがあるのがわかる。丁度指の腹くらいの大きさのそれには、字のようなものが彫られていた。
「ここに?」
 問うと、キャスクは頷く。
「ちょっと痛いかもしれないけど、そうしないと起きないから」
「……しゃあねえか」
「じゃあ、指貸して」
 そう言われ、錦野はキャスクに右手を差し出す。するとキャスクは、左手を取り、その親指に噛み付いた。
「ッて! キャスク!」
 咎めるように名を呼ぶと、キャスクはニッと笑い、
「ゴメンよ。だけど、刃物持ってないから」
「言ってくれりゃあ、自分でやったって」
「っていうか、さっきのお返し。よくもおいらを騙してくれたな?」
「だから悪かったって」
「もういいって。それより、早く押して。じゃないと、結界が破られちゃうし」
「は?」
「とにかく早く!」
 そう言うと、キャスクは血のついた錦野の親指をレリーフに押し付ける。
 押し付けたと思った瞬間、錦野は何故か、樽が胎動するのを感じた。

「また移動を始めたんやね」
「そうね。追う?」
「当たり前どす。あんたさんはどうすんの?」
「行くわ。私も仕事があるし」
「そうどすか」
 そして、二人は屋上を後にする。
 この日この近くにいた者で、ふと空を見上げた者がいたら、その者は空を行く二つの影を見つけただろう。
「ここね」
「結界を張っとるようやな。どうりで、黒子が使えへんわけやね」
「さて、どうする?」
「破るしかないでっしゃろ」
「そうね」
 そして、二人が目の前に向けて手を掲げた時だった。
 目の前にヒビが入り、そこにあるはずの壁が砕けた。そして目の前に空き地が見える。
 ビルとビルの狭間にポツンと残された、そう広くない空き地だ。その空き地の中央に、樽がある。
 その前には、女にとっては見覚えのある男と、見慣れない子ども。その二人のどちらよりも大きい樽の周りには、枯れたツルが散乱している。
 樽はガタガタと揺れている。まるで何かが飛び出そうとしているようだった。いや、違う。飛び出そうとしているのだ。
「とーに遅かったみたいでっせ。どうします?」
「とりあえず樽は壊そう。まだ何も出て来てないみたいだし」
 そして二人は、樽に向かって走り出す。不意に、錦野が振り向く。そして面食らったような表情で、叫ぶのだ。
「繁藤さん!?」
 そして、錦野が女の名を呼ぶと同時、樽のふたが勢いよく外れた。

 錦野は背後から殺気を感じ、振り返った。すると、そこにはよく知る女と見知らぬ白い男がいた。それに驚いて、錦野はその女の名を叫んだ。
「繁藤さん!?」
 それと同時、何かが外れる音がした。見ると、樽のふたが外れたらしい。
「成功だね」
 キャスクがそう言うと、中から何かが出てきた。
「そう、成功よ」
 樽の中から出て来たのは、金髪の美女だった。顔つきは明らかに日本人のものではない。
「おはよう、キャスク。よくやってくれたわ」
「礼はいいから、とっとと元の姿に戻してくれ。この状態だと、戦えないし」
 その声はいつものキャスクと同じだが、口調はまるで違う。
「分かってるわ。でも、その前に彼に自己紹介しなきゃ」
 すると、キャスクはため息をつく。
「そんな時間はない。目の前に魔女と仙人がいるのに、そんな余裕が何処にある?」
「自己紹介は大事なのに」
 拗ねたようにそう言うと同時、繁藤が叫ぶ。
「マリー・オーンズ!」
 それを聞いて、女は繁藤を睨む。よく見ると、繁藤と男はそこから動けないらしい。樽から三メートルほど離れた場所で、立ち止まっている。
「何よ、煩いわねェ。折角清々しい気分で目覚めたっていうのに、金切り声で呼ばないでちょうだい」
「あんたさんの気分やらなんやら、知ったことではあらしまへん。悪いんやけどアンタ、お目覚め早々に寝てもらいますわ」
 そう言って、白服を着た男は懐から数枚の札を取り出す。それを見て、マリー・オーンズというらしい女は目を見開く。
「なるほど。確かに余裕はなさそうだわ。『黒い焔の魔女』繁藤真弓と、『白茅の水仙』神宮寺崇ね」
「だろう? 分かったなら、とっとと元に戻せ」
 しかし、女は首を振った。
「戻す必要はないわ」
「だったら、どうするんだよ?」
 キャスクが問うと、女は今しがた自分が出てきた樽に触れる。
「逃げるのよ。この二人を一度に相手するのは面倒だからね」
「情けな」
「何とでも仰い。三十六計逃げるにしかずって、中国の誰かさんも言ってたじゃない」
「逃がさないわ!」
 そして、繁藤は手を掲げる。すると、何もないはずの空に暗雲が立ち込める。それに対し、女は樽に触れたまま、口の端を歪ませる。
「バカね。この樽には、色々と術を記載してるのよ?」
 女はそう言うと、樽を指先でそっと撫でる。指先で撫でた部分に、白い文字が浮かび上がった。
「轟け、雷鳴!」
 繁藤がそう叫び、手が振り下ろされる。そして上空の暗雲から、落雷が起こる。
 真っ直ぐに落ちてきた雷は、樽の数メートル上空で、何かに跳ね返されたように散乱した。そして二発目が樽に向かって来た時、樽を中央にして、奇妙な模様が地面に浮かぶ。模様はちょうど、男と繁藤の手前で切れている。
「あれは。魔女はん、魔術は止めときんさい!」
 男が止めようとするが、繁藤は続けて落雷を起こす。
 だが次の瞬間、落雷も暗雲も、全て樽に吸い込まれるようにして消えた。
 そして、奇妙な模様は赤い光を発し、一瞬目の前が歪んだかと思うと、そのままそこだけ消えてしまった。
 樽と女、キャスク、錦野。それらは全て、一瞬で消えてしまった。
「え?」
 繁藤が呆然としていると、男は額を軽く叩く。
「やられたわ。まさか、あんたさんの魔術から魔力を抽出し、それを使こうて転移術をやるなんて」
 それを聞いて、繁藤はどういうことか理解した。
「つまり、私のミスね」
「いいや。ただ、向こうさん方が、上手やっただけどす」
「いいえ、違うわ。もうちょっと冷静にやるべきだったわね」
 そう言って、繁藤は辺りを見渡す。そこでふと、地面に何かが落ちているのを見つけた。近付いてそれを拾ってみると、繁藤は笑みを浮かべる。
「向こうも、慌ててたらしいわね」
「とゆーと?」
「術の欠片が残ってるわ。これを少し弄れば、行き先が分かる」
 繁藤は手に持っているものを、夜に浮かぶ月で透かすように持ち上げる。
 小さな、木の破片だった。そしてその木の破片には、薄らと何かが描かれている。

 気がつくと、目の前には見覚えのない小屋があり、周りは静かな森になっていた。
「ここは?」
 錦野が声を出すと、錦野の隣にいたキャスクが答えてくれた。
「ここはおいらやマリオンの隠れ家さ」
「マリオン?」
「この女の呼び名」
 そう言って、キャスクは女を指差す。
「そういや、あんたは誰なんだ?」
 錦野が今更なことを問うと、女は妖艶な笑みを浮かべる。
「初めまして、私はマリー・オーンズ。知らないでしょうけど、人は私をルート氏と呼んでるわ。どっちも偽名よ。でも、あなたは私の本名を知る権利があるし、また義務がある。改めて名乗りましょう。私はシルヴァーナ・ロッソ」
「そんで、おいらの本名はキャスク・バレルっていうんだ。んで、このガキの姿の時はキャスク、もう片方のでかくなったバージョンじゃあバレルって呼んでくれ」
 キャスクがそう言うと同時、キャスクの周りに黒い煙が噴き上がる。
「わ!」
 錦野が驚いていると、シルヴァーナはくすりと笑う。
「大丈夫よ。ただ、ちょっと変身してるだけだから」
 少しして、その黒い煙が消えた。そしてそこに立っていたのは、茶色い肌に長い緑色の髪といった特徴のある、優男だった。その特徴はおろか、顔立ちもどこかキャスクと似通っている。しかしキャスクと違い、この男の背には黒い翼があった。
 そしてそれを見て、錦野は目を見開き、素っ頓狂な声を上げる。
「で、ええ!?」
 その反応を見て、男は楽しそうに笑う。
「ははっ、佳也、驚いたろう? まあ見た目はこれでも、最初に言ったとおり、植物には変わりないんだけどな。何たって、俺は樽の悪魔だから」
「た、樽の悪魔?」
「そう。キャスクは樽の悪魔よ」
「一体、どうなってるんだ?」
 あまりのことに、錦野は頭を抱え込んだ。
「まあ、驚くのは無理ないわ。ゆっくり説明してあげましょう。何故私が樽の中にいたのか、何故キャスクはあの空き地にいたのか、そして、何故あなたに封印が解けたのか」

 聞かせてもらった話は、どれもいまいち信用できなかった。
 まず、魔女狩り自体が人間たちのせいによるものではなく、その影で魔界の悪魔が人間たちを操っていたせいでもあるというのだ。
 そして、魔女や魔法使いたちは、魔界と戦争を始めた。
 その戦争を、彼女たちは『大戦』と呼んでいる。
 大戦が両者の平和同盟によって終結した頃、シルヴァーナは樽から悪魔を造り出すことに成功した。その第一号が、キャスクだという。
 その悪魔の存在を知った他の魔女や魔法使いといった者たちは、折角終結した大戦を再び起こすものとして危険視し、キャスクを殺して、またシルヴァーナも殺そうとしたのだ。
 シルヴァーナとキャスクは、それを知って逃亡した。
 各地を転々としていた二人は、その内魔女や魔法使いたちに見つかったが、その時は命からがら逃げのびた。だがその時、二人は呪いをかけられた。
 シルヴァーナは十年周期で人の姿と醜い化け物の姿が入れ替わる呪いを、キャスクは力と本来の姿を封じられ、シルヴァーナが人の姿でいる間、記憶がなくなる呪いを。
 呪いをかけられ、シルヴァーナはすぐにキャスクを封じ、化け物に姿を変えるまでの間、呪いを解こうと努力した。その結果、彼女は呪いを解くことには成功したのだ。
 だが、それにはおまけがついていたのだ。
 呪いを解く時に、シルヴァーナはとある薬を飲んだ。その薬が、人体には毒だったのだ。それに気づいていた彼女は、己の『時』を止め、キャスクを造りだした樽の中で眠った。一方封印が解かれたキャスクは、解毒剤を求めて、樽と共に各地を旅した。
 そして見つかったのが、錦野だという。

「待ってくれ。何で俺が、解毒剤なんだ?」
 問うと、説明の間に子どもの姿に戻ったキャスクが淡々と説明しだした。
「カヤはウルタ人種だ。そしてその能力は、あらゆるものを中和させるということ。今は血の中でしか働かない能力だけど、その内自分で何でも中和できるようになるよ」
 それを聞いて、錦野は目を見開き、呆気に取られたような声で呟く。
「俺が、ウルタ人種? 待ってくれよ。確かに俺は、親戚にウルタ人種が多いけど、俺自身はそうじゃない。だってそうじゃないか。目に見える能力を持ってない」
「それはさっき説明しただろ? 今のカヤじゃあ、その能力は血の中にしか現れない。覚えはない? 例えば、薬やタバコをやっても、中毒にはならないとか」
 その言葉に、覚えはあった。
「た、確かにそうだけど。でも、それは、体質の問題だ」
 錦野がうつむきながらそう言うと、シルヴァーナはため息をつきながら、半ばぼやくように話し出す。
「あなたが信じないというなら、それでもいいわ。でも、あなたはどちらにしろ帰れないのよ。もう、あの場所にはね」
「何で?」
 驚いて顔を上げると、シルヴァーナは申し訳なさそうに笑い、
「面倒だったからと言っても、私はあなたを連れて逃げてしまった。恐らく、彼らの依頼人は、あなたを私たちの仲間だと見なすわ。そうなると私たちだけでなく、きっとあなたも命を狙われるわ」
「まあでも、ここにいる限りは、おいらたちが護るよ」
 しかし、錦野は首を振る。
「護られるなんて真っ平だ。それに、俺の命が狙われるのは今更のことだし。でも、俺だって命は惜しい。だから、ここにいるのが今一番安全で、あんたらの負担にもならないって言うなら、ここにいさせてもらう」
 それを聞いて、二人は互いの顔を見合わせ、やがて頷く。
「そうだね。ここがある意味、世界で一番安全かもしれないね」
「それに、カヤがここで大人しくしてくれれば、多分おいらたちも随分楽だ」
「なら、そうさせてもらう」
 錦野がそう言うと、シルヴァーナは立ち上がり、錦野に近寄る。
「これから宜しくね、錦野佳也君」
「何で名前を?」
 驚いていると、シルヴァーナはキャスクを指差す。
「キャスクから全て聞いたの」
「ああ、なるほど。キャスクみたいに、佳也でいいよ」
 そう言うと、錦野も立ち上がる。
「それじゃあ改めて、これから宜しくね、佳也」
「ああ、宜しく。シルヴァーナ」
 そして、二人は互いの手を握った。

途中で出してる京都か大阪どっちの言葉なんやみたいな男が読み返しててきつかったので多少口調直してしまったけど、まだちょっとおかしいな。まあ過去の未熟よねと諦めますが。

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