狐落とし

とある女がとある宿場町で起こった怪事件の調査をすることになったのに、最終的によくわからないことになる話。
高校生くらいの頃に書いた記憶があるけど、これは人に見せたかはちょっと覚えてない。

「天気がいいなあ。今日は遠くまで行けそうだ」
 独り言を呟いているのは、奇妙な女だった。大きな木箱を背負い、片手には錫杖があった。一見すると六部かと見紛うが、背負っているのが厨子ではないため、すぐに六部ではないとわかる。しかし、彼女を六部と誤解するような者は、ここにはいなかった。
 女は街道筋ではなく、山中の獣道を歩いていた。頭上は木々が鬱蒼と茂っている。辺りは薄暗く、とても天気がいいとは断言できない状況だ。
 いくらかして、女は突然、辺りを見渡し、首を傾げる。
 遠くで鳥が飛び立ち、甲高く鳴く声が聞こえる。
 鳥の声が聞こえて、女は思いついたように声を上げる。
「江戸って、あっちかな?」
 そう言って、女はある方向を向く。そして、女は己の顔を隠している編み笠を軽く引き下げ、地面に突き刺した錫杖を引き抜き、再び歩き出した。

 ちょうど、山中から街道へ出て、三里ほど歩いた時だった。
 宿場町の手前で、人だかりが出来ていた。それが気になって、女はそこに近付いてみる。
「ねえ、何かあったの?」
 野次馬の一人に問うと、その男は女を見て、一瞬驚いたが、すぐに事情を説明してくれた。
「ああ、あんた六部か。知らないのかい? ここ最近、この付近で、人死にが多いんだよ。それも、無残な姿でな」
「へえ、どんな姿で?」
 問うと、男は顔をしかめる。
「酷い死に方だぜ。口から泡吹いてて、しかも腹割かれて、中身は取り出されてる。おまけに顔の面も剥がされてるから、まだ身元がわからねえ仏さんもいる」
「うわ、むごいねえ。今回の仏さんも、そうなの?」
「おうよ。六部の姉ちゃんは見ねェ方がいい」
「そう。わざわざありがとね」
 そして、女はその野次馬から一旦離れ、近くの木の影に箱を置き、その木に登った。木の頂上につくと、女は懐から遠眼鏡を取り出し、下を見る。
 野次馬の向こうには、与力や同心がいる。そしてそのほぼ中央に、問題の死体があった。確かに、先ほどの男が話したとおり、無残な死体だった。腹が割かれ、その中にあるはずの臓腑は見当たらない。おまけに顔の面まで剥がされている。なるほど、これなら身元が分からない。
「ほうほう、あれは事件っぽいなあ。嫌だ嫌だ、江戸は目と鼻の先なのに、また厄介事?」
 女は独り言を呟きながら、遠眼鏡をしまい、木から降りる。
 木から降りると、女は箱を背負い、再び歩き出した。
 変死体の野次馬から離れてすぐのところに、宿場町があった。そこそこに活気があり、様々な人間が行き交う様子を見ると、ある程度栄えているらしい。
 町の中程に、禄屋という宿がある。女はそこに泊まることにした。
 中に入ると、腰に刀を差している男と店の者が言い争っていた。
 どうやら、この店の娘か何かを何処かへ連れて行こうとしているらしい。行き先は十中八九、この男の部屋だろう。
「お客さん、止めて下さい!」
「いいじゃねえかよォ! どうせここにゃあ、他に客なんざいやしねェしよ! 俺の酌の相手をしろよ!」
 そう言って、男は娘の手を引き、奥へ連れて行こうとする。
「いやぁ!」
 娘は連れて行かれまいと、体重をかけているらしい。しかし、それは無理だろう。明らかに娘は細いし、その場に踏ん張る力もなさそうだ。あれではすぐに、連れて行かれてしまう。
 最初は放っておこうかと思ったが、同じ屋根の下で悪事(かどうかは微妙だが)が行われているのは、どうにも気分が悪い。
 女はため息をつきながら、二人の方に近付き、錫杖で男の手を叩いた。
「ッて! ンだあ? テメェ」
 ごろつき特有のねちっこい睨みも気にせず、逆に睨み返し、女は錫杖を肩に当てる。しゃらんと涼やかな音がする。
「迷惑しているだろう。諦めて手酌でもしておけ」
「嫌なこった」
 男は簡潔にそう言うと、ふといやらしい笑みを浮かべ、女に近付く。
「姉ちゃんが相手してくれるって言うんなら、あの娘に手は出さねえよ。どうだ?」
 そして、男が女の手を取ろうとした時、女は錫杖で男の頭を殴る。あまりの痛みに、男は頭を抱え、その場にしゃがんだ。それを見て、女は馬鹿にしたように男を見下し、冷たい声で命じた。
「とっととこの宿から失せな。そして、二度と私の前に現れるな」
 その声を聞いて、男は何故か、喉元に刃物を当てられた気がした。実際は、女は刃物など持っていないのに。だが男は、女の言うとおりにしないと、殺されると思った。いや、思ったのではない。確信したのだ。
「ッくしょう! 覚えてやがれ!」
 男はそれだけ叫ぶと、どうにか立ち上がり、一目散に逃げ去った。
 それを見送り、女は一つ息をついて、宿の主人の方を向く。
「すみません、今晩泊まりたいんですけど、良いですか?」
 問うと、それまでを呆然と見ていた宿の主人は、ふと女の方を見て、頭を下げる。
「ありがとうございます! あのごろつき、ここのところ毎日ここに来て、正直困っていたのです」
「いや、お礼はいいから、一晩泊めていただけませんか? ここは宿屋なんでしょう?」
 女がそう言うと、主人は顔を上げる。そして、笑みを浮かべて答える。
「はい、左様でございます。しかし今宵は、お金を払わなくても結構です」
「いやそういうわけには」
「いいえ、是非ともそうさせてください。私の娘を守ってくださいましたし、何より、あのごろつきを追い払ってくださった。だから是非とも、お礼がしたいのです」
 強く言われ、女はどうにも断りきれず、頬を掻きながら、
「そ、それじゃあ、お言葉に甘えさせていただこうかな」
と答えると、主人はもう一度頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「いや、それよりもさ、部屋に案内してよ」
 そう言われ、主人は顔を上げ、声を張り上げる。
「ちとせ、足湯を持ってきなさい!」
「へい!」
 返事があると、主人は自分の目の前を手で示す。
「さ、こちらにお掛けください」
 そう言われ、女は少し戸惑いながらも、示された場所に座る。
 少しして、湯に入った盥と手拭いを渡される。それを受け取り、女は足を綺麗にする。
「お客さん、名前は?」
「幸(さき)って言いますけど」
「お幸さん、あんた一体、何しにこの街へ来たんだい?」
 しかし、お幸は答えることなく、手ぬぐいを湯の中で洗い、絞った。茶色い水は、たらいの中の湯を少し濁らせた。
 お幸はそのまま、手ぬぐいをたらいの端にかける。そして、主人の方を見た。
「何しにって、普通に江戸に向かってるんだよ。それで、今日はもう宿を取ろうと思ってね」
「へえ、お姉さん、江戸に何しに行くんだい?」
 会話に割ってきたのは、今入って来た客のようだ。見ると、笠を被った侍が入り口に立っている。侍が笠を取ると、人の良さそうな顔が現れる。
「お侍さんには関係ないことだよ。ご主人、私の部屋は何処?」
「少し待ってください。今、案内の者を呼びますから。ちよ! お客さんを部屋に案内なさい!」
「あ、はい」
 返事をして出て来たのは、先ほど連れて行かれそうになった娘だった。
「あ、さっきはどうも」
「いえ、私が勝手にやったことだし」
「それでも、助かりました。お部屋に案内しますから、ついて来て下さい」
 そして、お幸はちよについて行った。
「あのごろつき、いつも来るの?」
「いえ、来ても週に一度か二度なんですけど、最近は吉兵衛さんがいないからか、毎日来るんです」
「吉兵衛?」
「はい。私の、許婚なんです」
 少し照れるようにしながら言うさまは、何だか微笑ましかった。
「それで、何でいないんだい?」
「それがさっぱり。一週間前から、来てないんです」
「家とかは?」
 しかし、ちよは首を振る。
「行ってみたんですけど、もぬけの殻で」
「じゃあ、最後会った時、どんな格好だった?」
「え? うーん、確か、作務衣を着てて、今からお父様の手伝いをしてくるって言ってたかな」
「父親の手伝いって?」
「ええ、吉兵衛さんのお父様は、呉服問屋をなさってるんです。跡は兄の甲兵衛さんが継ぐとか。でも、吉兵衛さんはお店の方をお手伝いに行ってるんです」
「ふーん」
「でもそう言えば、身内が亡くなったとか言ってた気もするわね。もしかしたら、そっちの方で何かあったのかも」
 それを聞いて、お幸は怪訝な表情になる。
「身内が、死んだ?」
「ええ。詳しくは教えてくれなかったけど、とても気落ちしていたのは覚えてます」
「……へえ、そうなんだ」

 翌日、朝早くに宿を発ち、お幸は江戸へ向かった。そして、昼過ぎには江戸市中に着いた。
 江戸京橋、数々の大店が立ち並ぶその中に、『三藤屋』という店がある。笠屋であるその店は、今日は休業となっていた。
 お幸はその店に来ていた。店の中に入ると、所狭しと笠が並べられている。その中には、奇妙な笠もあったが、お幸は気にすることなく、声を張り上げた。
「ちょっと、社屋! 何か用なの?」
 半ば怒鳴るような声に反応したのか、奥から狐のような顔をした子どもがいた。
「お幸さん、母なら所用で出掛けています。もう少し待って下さい」
 落ち着き払った様子で、子どもが淡々と話すと、お幸は舌打ちをして、店の奥へ行った。それに、子どももついて行く。
 少し行った場所で、草履を脱ぎ、そこから中へ上がる。何回か襖を開け、座敷に着いた。座布団が二枚、置かれている。広い部屋だ。
 お幸が座布団の一枚に座ると、その斜め後ろに子どもが座る。そして、子どもが手を一つ叩くと、向かいの襖から、顔に布が巻かれた男が現れる。その男はお幸のところまで来て、茶と菓子を置いた。菓子はまんじゅうだった。
 しかし、お幸は出された茶やまんじゅうに興味を持たない様子で、男の方をうさんくさげに見る。
「比呼(ひこ)じゃない。あんた、まだここで働いてたの?」
 馬鹿にしたような声で問うと、比呼と呼ばれた男は頷く。そして、酷くかすれた声で答えた。
「まだ恩を返しきっていないからな」
「恩返しも程々にしないと、死ぬまでここで働くことになるわよ?」
「別に、構わないさ」
 それを聞いて、お幸は顔をしかめる。
「私には一生理解できないわね」
 その声には、心からの嫌悪感が表れていた。
「別に理解してくれなくてもかまわないさ」
「そりゃ良かった。生憎、頼まれても理解できそうにないんでね」
 そう言って、ようやく茶に手を伸ばした。
 お幸が三杯目の茶と二個目のまんじゅうを、比呼に頼んだ時だった。
「あんまり、比呼をこき使わないでちょうだいよ。これでも、大事な婿候補なんだし」
 突然聞こえてきた声に、お幸は少しだけ顔をしかめる。
「あんたの婿になるって、ものすごい大変なことよね」
「あら、ありがとう」
「今のがどう聞こえたら、褒め言葉に聞こえるのかしら?」
 冷ややかにそう言うと、比呼が出入りしている襖から、今度は振袖を着た女が出てきた。一見傾城の美女とも言えそうなほどのこの女が、口入れ屋『社屋』の主人、狩野社桔(かのうしゃげつ)である。
「社屋、遅いわよ」
「あら、早く来たあなたが悪いんじゃない。それに、これでも早めに用事を済ませて来たのよ」
 そう言うと、もう一枚の座布団に座る。
「比呼、お茶を持って来てちょうだい」
「分かりました」
 襖の向こうから返事が聞こえ、気配が遠ざかる。
「浩太も下がりなさい。これから、商談をするから」
 狩野がそう言うと、お幸の斜め後ろに座っていた浩太は、少し不満そうな顔をする。しかし、やがて一つ頷くと、浩太はお幸の背後にある襖から出て行った。
 浩太の気配もなくなると、お幸はねめつけるような目で、狩野を見る。
「それで、本当に何の用なの?」
 お幸が問うと、狩野は無表情に一枚の書状を取り出し、お幸に渡す。
「依頼内容はその中よ。それなりに身分の高い人からの依頼だから、断るってのはなしよ」
「はいはい」
 そう言いながら、お幸は書状を開き、読み始めた。しかし、読み進める内に表情は険しくなり、書状を持つ手もわなわなと震えだす。
 お幸が書状を読んでいる間、比呼が二人分の茶とまんじゅうを持って来て、置いていき、再び部屋から出て行った。狩野は出された茶を啜る。
 狩野がまんじゅうに手を出そうとした時、最後の一行を読み終えたのか、お幸は書状を畳に叩きつける。
「冗談じゃないわ! こんなの、同心や岡引の仕事じゃない! 裏に回す仕事じゃないでしょう?」
 一通り怒鳴り散らすと、お幸は茶をあおる。そして一息つくと、狩野をじっと見つめ、静かな声で問う。
「で、どういうわけで、あんたは私にこれを託そうと思ったわけ?」
 それに対し、狩野は同じような調子で答える。
「確かに、これは本来、同心や岡引の仕事だわ。下手人が地位も財もない、ただの人ならね」
「つまり、地位も財もある、おまけに奉行所やらに圧力をかけられる人物が絡んでると?」
「そういうことになるわね」
「じゃあ私は、どんな奴でもごまかしようのない、おまけに圧力をかけても消えようのない証拠を挙げればいいと?」
「お幸は察しが良くて助かるわ」
 それを聞いて、お幸はため息をつく。
「分かったわよ。行って調べりゃいいんでしょ?」
「そういうことね」
「もう、二度手間じゃない。早く言ってくれれば、あのまま調べてたのに」
 お幸がぼやくようにそう言うと、狩野は首を傾げる。
「あら、何か不都合があったの?」
 問うと、お幸は首を振り、まんじゅうに手を伸ばす。
「違う違う。ここに来る一晩前、件の街で宿を取ったのよ。その時に、件の死体も見たってわけ。……あ、お茶がない。比呼、お茶!」
 そう言ってから、お幸はまんじゅうを皿に戻した。

 お幸は再び、あの宿場町まで来ていた。そして、先日と同じく、禄屋に宿を取る。
「あらお幸さん、用事はもう済んだの?」
 問われ、お幸は苦笑しながら首を振る。
「まだ終わってないのよ。だけど、ここで待つように言われたの」
「それじゃあ、長くいるんですか?」
「ええ、そのつもりよ。何か、不都合があったりする?」
 そう言われ、ちよは慌てたように首を振る。
「あ、いえ、そういうわけじゃあないんですけど。ただ、最近この辺りは物騒だから」
 困ったような表情を見て、お幸は首を傾げる。
「物騒? とてもそうは見えないけど」
「いえ、そうでもないんです。最近は、人死にが多くて」
「噂の変死体のことかい?」
 お幸が問うと、ちよは驚いたようにお幸の顔を見る。
「何処で、それを?」
「最初に来る前に、ちょうどその変死体を見かけたから」
「そう、ですか。無残だったでしょう?」
「まあ確かに、全国探しても、そうそうお目にかからない様子ではあったな。……そう言えば、吉兵衛さんは見つかったの?」
 もう見つかっているだろうと思って聞いてみたが、予想に反し、ちよは悲しげに首を振る。
「実家の方に聞いても、何も」
「そう」
 お幸は悪いことを聞いたと思い、少しよそを向く。それを見ながら、ちよはふと俯き、小さく呟いた。
「吉兵衛さん、もしかしたらもう……」
「あれ? お姉さん、もう江戸に行ったの?」
 ちよの呟きを遮るようにして入って来たのは、先日会った侍だった。しかし、あの時会ったような旅装束ではなく、着流しを着ていた。どうやら、この間からここに滞在しているらしい。
 お幸は侍の登場に、思わず舌打ちした。
「江戸には行ったわよ。で、ここで待つように言われたの」
 冷たく言い放つが、侍は気にした様子もなく、納得したように頷く。
「そうなんだ。それじゃあお姉さん、今から一緒に出掛けない?」
「お断りするわ。第一、名乗らない男とは付き合うなって、母親にきつく言われてきたからね」
 軽い調子の誘いを一刀両断するが、やはり相手は、気にした様子がない。
「じゃあ名乗るよ。拙者は松田善二郎。お姉さんは?」
 あっさりと名乗られ、拍子抜けしながらも、お幸もそれに答える。
「幸よ」
「お幸さんね。それじゃあ、お互い名乗ったことだし、出掛けようよ」
 そう言って、善二郎はお幸の手を引く。
「え? ちょっと!」
「いいからいいから」
 善二郎はそう言いながら、お幸をそのまま外に連れ出した。
 外に出て、お幸は善二郎に握られたままの手を強引に引き剥がし、善二郎を睨んだ。
「ちょっと! 私は行くなんて言ってないわよ」
 お幸が声を張り上げるが、善二郎は気にした様子もなく、へらへらと軽薄な笑みを浮かべる。
「まあまあ。それにお幸さん、あそこであれこれ聞いても、彼女が余計なことを考え出すだけだよ。情報を集めたいなら、もっと違う筋にしときなって」
「情報を集める? 一体どういうことよ? 私はただ、この街で待ってろって言われただけよ。それ以外は知らないわ」
 お幸が心外だと言わんばかりに顔をしかめると、善二郎は驚いたようだった。
「あれ? 違うの? 何か、情報を集めてるのかと思ったんだけど」
「全然。松田様の勘違いじゃない?」
 そう言って、お幸は再び宿に戻った。
 その後ろ姿を見て、善二郎は首を傾げる。
 お幸は宿に戻ると、比較的早足で二階へ行き、ちょうど宿の横に出そうな窓を探し、そこから飛び降りた。そして、表の方をうかがう。
 そこには、既に善二郎の姿はなかった。
 それを確認してから、お幸はそこで一つ息をつく。
——あれって何者よ。どうして、情報を集めてるって分かったのかしら。
 そう考えて、お幸はため息をつく。
「私って、そんなにあからさまだったっけ?」
 思わずそう呟いてしまった。
 外に出てしまったので、今更戻るのもどうかと思い、お幸はそのまま散歩に出ることにした。お幸の言う散歩とは、普通の道を通るのではなく、屋根の上を通るという、一風変わった散歩だが。
 禄屋から六件分の屋根を過ぎた時、長屋に住む女たちの雑談が開かれているのを見た。
 長屋に住む女たちの雑談とはなかなかに侮れないものなので、お幸はそのまま立ち聞きすることにした。
「ねえねえちょっと、聞いたかい?」
「ええ? 何をだい?」
「また出たんだって。あの、例の」
「ああ、あれ?」

 最近は物騒になったわね。
 そうそう。行方不明になったって言う人が増えたし。
 その人達も、多分殺されたんだろうねェ。
 でもさァ、殺されて死体が見つかっても、誰なのか分からないってのが嫌だねェ。
 ほとんどが無縁仏になッちまうんだろう?
 そう言えば、吉兵衛も行方知れずなんだって?
 ああ、そうらしいねェ。
 もし殺されてンなら、ちよちゃんがかァいそうだねえ。
 でもさァ、あそこの家も大変だねェ。
 ええ? 何でだい?
 知らないのかい?
 吉兵衛が殺されてるッてんなら、あの家、二人目だよ。
 確かその前にも、一人おっ死んじまったッてね。
 そうだったねェ。
 何か、まるで呪われてるみたいだねェ。
 ああ、大稲荷様の呪いってヤツかい?
 止しとくれよ。あたしゃあもう、あれのことは忘れたいんだ。
 まあまあ。
 でも、大変だったよねェ。
 そうそう、大騒ぎだった。
 確かあれに反対して、一人死んでたっけ。え〜と、確か。
 おくめさん?
 そうそう! おくめさんだよ。
 あの人は哀れだったねェ。
 ホント、ホント。
 あの人確か、旦那さんに殺されたんだっけ?
 息子じゃなかったっけ?
 まあどっちでもいいわよ。

「ふむ、それじゃあちょっと、探るかな。何処からがいいかなァ?」
「まずはちよさんに聞いた方がいいと思うよ。何だったら、拙者が聞こうか?」
 突然背後から声が聞こえ、お幸は振り向くと、そのまま相手の首に手を伸ばす。
「え?ちょ、待っ」
 その声を聞いて、お幸は指先に込めていた力を抜く。すると、相手は苦しそうに咳き込んだ。生理的なものからか、目には涙がたまっている。相手の姿を改めて確認して、お幸はため息をついた。
「またあんた? お侍さん、よっぽど暇なのね」
 呆れたような声を出すと、善二郎は涙目のまま、恨めしそうに呟く。
「いきなり首を絞めといて、最初の言葉がそれ? ひっどいなァ」
 そう言うと、お幸は後ろ首をさする。
「あんたが気配を消して、背後に立ってるのがいけないのよ。そういうことされると、気づいた瞬間に攻撃する癖がある人もいるんだから」
 半ば開き直ったような口調に、善二郎はため息をつきたくなった。ため息をつくことはなかったが。
「そんな厄介な癖があるなら、早めに言ってよ」
「言ったら、不意打ちの意味がないじゃない」
「不意打ちって、そんな」
 敵同士じゃないんだからとか、それは人として間違っているとかという呟きは、綺麗さっぱり無視することにした。
 そして、お幸はふと気になったことを問うことにした。
「それより、何でお侍さんがここに?」
 すると、何故か善二郎は不快感を露わにする。
「名乗ったじゃん。善二郎って呼んでよ」
 どうやら、名前で呼んでもらえないことに不満があるらしい。
 しかしお幸の方は、冷たくよそを向き、冷たく言い放った。
「お断り」
 そう言ってから、お幸は屋根から飛び降りる。
「あ、待ってよ」
 慌てて屋根から飛び降り、お幸を追う。
「何で拙者があそこにいたのか、知りたくないの?」
「どうでもよくなって来た。どうせ関係ないし」
「え〜」
 不満そうに善二郎が声を上げるが、お幸はそれを無視する。
「それに、私は侍なんかと関わりたくないし」
 小さく呟くと、お幸はそのまま、雑踏に混じる。
 昼間はそこそこ人が行き交う街中を、お幸は少し早足で歩く。
 少し行くと、小さな社に着く。狐の像が見えるので、稲荷神社だろう。しかし、その稲荷神社がある場所は、街外れと称されるような、人の気配が少ない場所だった。
「こんなところにお稲荷さん?」
「それが噂の大稲荷の成れの果てだよ」
 聞き覚えのある声がして、お幸はため息をつきながら振り向く。お幸にとっては残念なことに、予想と違わず、そこには善二郎がいた。
「ついて来ないでよ」
 不機嫌を露わにして呟くと、お幸は再び稲荷神社の方を見る。
「まあまあ、お幸さん。惨殺事件のことについて、調べてるでしょ?」
 それを聞いて、お幸は善二郎の方を向いた。そして、少しだけ首を傾げる。
「あら、どうしてそう思うの?」
「そういう情報を持ってるから」
「じゃあ、誰に聞いたの?」
「それは秘密です」
 そう言って口元に指を当てるのを見て、お幸は口の端を歪め、ゆっくりと善二郎に歩み寄り、その首にそっと触れる。
「それで、あなたはどうするつもり?」
「どうするつもりって?」
 問うと、お幸は善二郎の首を絞めるように、手を首に回す。
「邪魔をするって言うなら、今この場で殺すわ」
「殺したら、まずいんじゃ?」
 手に首が掛けられた状態でも、善二郎は平然とした様子で問う。すると、お幸は口の端を更に歪め、手に力を込める。途端、善二郎は苦しそうに眉をしかめる。
「大丈夫よ。最近は惨殺事件が多いじゃない。あれと同じように殺せば、問題ないわ」
 首を絞められているというのに、善二郎はお幸の言葉に笑みを浮かべた。そればかりか、力なく笑い声まで出した。
「はは、違いない」
 喉の震えが、手から伝わってくる。口の端の歪みを消し、お幸は顔をしかめる。
 お幸は絞殺が一番嫌いだ。声を発するたびに分かる喉の震えが、嫌いだからだ。正に手にかけている状態だ。あからさまなのが、お幸は嫌いだった。
 殺した跡もあからさまに残る。あれはあまりに無様だ。まるで駄作だ。人を殺す時は、そんな無様な跡ではなく、もっと芸術性を思わせるものを残したい。お幸はそう思っていた。
 お幸は顔をしかめたまま、善二郎に問う。
「それで、どうなの? 邪魔をするつもりなら、抵抗した方がいいわよ」
 しかし、善二郎は全く抵抗する様子がない。それを見て、お幸は手を離した。善二郎は再び、涙目で咳き込むことになった。
「邪魔をするつもりがないんだったら、一体何のつもりで、私に近付くわけ?」
 まだ善二郎が咳き込んでいる中で、お幸は問う。善二郎はその問いに答えるまで、数十秒かかった。まだ苦しかったのだ。
「拙者はただ、お幸さんに協力しようと思っただけだよ」
「何で?」
 お幸が問うと、善二郎はふと真面目な顔つきになる。
「一目惚れって、信じる?」
「それって、最終的に裏切る男が最初に言う台詞よね」
 お幸が冷ややかにそう言うと、善二郎は苦笑した。
「えー、そんなことないって」
「どうだか」
 お幸はそう言ってから、ふと上を向く。そして、悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべ、善二郎の方を向く。
「それじゃあ、社屋に誓ってちょうだい」
「やしろや?」
「ええ。あ、社屋については聞かないでね。ただ、社屋に誓って。絶対に、私を裏切らないと」
 強い口調で言われたわけでもないのに、何か迫力を感じる。それに居心地の悪さを感じた善二郎は、後ろ頭を掻いた。
「あー、うん。分かったよ。よく分かんないけど、そのやしろやってのに誓う。絶対に、お幸さんを裏切らないって」
 そう言うと、お幸は満足げに頷く。
「よろしい」
「信じてもらえた?」
 善二郎が不安げに問うと、お幸は機嫌よく頷く。
「社屋に誓ったならいいわ。そう言えば、この稲荷がどうたらって言ってたわよね。何か知ってる?」
 先ほどとは打って変わった態度に戸惑いを覚えつつも、善二郎は首を振る。
「拙者は知らないが、ちよさんなら何か知ってると思うよ」
「じゃあ、今から聞こうかな」
「何だったら、拙者が直接聞こうか?」
「それは結構よ。それは自分で聞くし。善二郎さんは、吉兵衛さんの実家を探ってみてくれない? もしかしたら、面白いことが出るだろうから」
「分かった。じゃあ、何か分かったらお幸さんの部屋に行くよ」
「そうしてちょうだい」
 お幸が答えると、善二郎はそこから去って行った。
 少しして、お幸は頭上を見上げる。
「比呼、ちゃんと聞こえた?」
「ああ」
 その声と共に、竹林の中から比呼が現れた。
「にしても、あの女も悪趣味ね。比呼を使って監視だなんて」
「そう言うな。お前が心配なんだろう」
「もう幼馴染に心配されるような年じゃないってのに」
 そう言ってため息をつくお幸を見て、比呼は苦笑する。
「狩野も同じことを言っていたな。もう幼馴染を心配する年じゃないって」
「分かってるんなら、心配しないでよ」
「お前は昔から、無茶をする傾向にあるからな。いつまで経っても心配なんだろう」
 そう言われ、お幸は更に深いため息をつく。
「しかし、よく分かったな。俺がいると」
 感心したように言われ、お幸は比呼の方を見て、それから上を指差す。
「着物の裾が見えてたのよ。あんた、私が誰よりも目がいいのを忘れたの?」
「ああ、そう言えばそうだったな。うっかりしてた」
 そう言いながら、比呼は己の後ろ頭を掻く。
「まあ、別にいいけどね。そう言えば比呼、頼まれてくれないかしら?」
「何をだ?」
「あの松田善二郎って男。どうも気になるのよね」
「恋か?」
 真面目な顔で問われ、お幸は比呼の頭を叩く。
「馬鹿。きな臭いってことよ。私に対して、気配を絶つだなんて芸当、そんじょそこらのお侍さんじゃあできないからね」
「ああ、なるほどな。分かった。狩野に言って、調べてもらおう」
 それを聞いて、お幸は呆れたような感心したような、中途半端な表情で比呼を見る。
「あんたって、何気なくあの女をこき使うのが上手よね。このままだと、あんたが社屋の婿になりそうだわ」
「そうか? その気はないんだが」
「説得力ないっての」

 宿に帰り着き、お幸は部屋に向かう。その途中で、善二郎に出会った。善二郎はお幸を見つけると、神妙な面持ちで近寄ってきた。そして、低い声で告げる。
「ちよさんが、消えたらしい」
「え!?」
「拙者たちがここを出て、そう時間が経たない内に、血相を変えて出て行ったって」
「血相を変えて?」
「そう。それと、急いだ様子だったって」
「ふーん」
「ふーんって、心配じゃないの?」
「鼠に聞けば分かるからね」
「ね、鼠?」
「そう。まあそれはいいとして、その前に来客がなかった? そうねえ、私たちが宿を出る前くらい、丁度、私がちよと話してた時くらい」
 問われ、善二郎は呆気にとられたような顔をする。
「何で知ってるの?」
「それは秘密よ。それで、その男は今何処にいるの?」
「今は部屋にいるはず」
「そう。ちょっと浩太! どうなの?」
 突然、お幸が天井に向かって叫ぶと、天井の板が一枚外れ、そこから子どもの顔が現れる。浩太だ。
「確かに、侍はいましたよ。その侍の人相までは見えませんでしたけど」
「その侍、ちよに何か言ってたでしょ? 何って言ってた?」
「うーん、それがですねェ、侍の声が異様に小さくて、おまけにぼそぼそと喋るものですから、詳しくは聞き取れなかったんです。辛うじて聞き取れたのは、死体が上がったとか、吉何とかがどうたらくらい」
「それだけでも上等なモンよ。それと、今その侍は、この宿の何処かにいる?」
 すると、浩太は首を振る。
「残念ですけど、ちよさんが出て行った直後くらいに、宿から去って行きました」
「そう。ありがとうね。あ、これ、駄賃だから」
 そう言って、お幸は懐から何かの包みを取り出し、天井に投げ上げる。それを浩太は、片手で受け止め、そのまま天井裏に引き上げる。それから、不可解そうな顔でお幸を見る。
「どうして、私がいるって分かったんですか? 気配はしなかったでしょう?」
「ええ。小憎たらしいほど、気配は感じなかったわ。でも、比呼がいたらあんたもいるに決まってるでしょ?」
「何だ、比呼は見つかったんですか」
「ちょっとおドジだからね。そうそう、あの女に言っといてよ。監視をつけるくらい心配なら、あんたが来なさいって」
「……覚えていたら、伝えますよ」
 そう言うと、浩太は苦虫を噛んだような顔で、天井裏に消えた。無論その際には、天井の板は元の位置に戻された。
「今のは……?」
「私に待ってるように言った奴の子ども。すっごい心配性なのよ」
「はあ、そうなんだ」
「まあ、それはいいとして。あっちの家から、何か出た?」
「あ、うん。山のように出てきたよ。案外、家の中でも外でも有名らしいから」
「じゃあ、部屋で聞かせてちょうだい」
 そして、二人は部屋に入る。
「まずは大稲荷についてなんだけど」
「ちょっと待って。浩太、まだいるなら降りて来なさい。比呼もよ」
 お幸がそう言うと、再び天井の板が外れ、そこから先ほどの子どもと、顔に布を巻いた男が降りて来た。
「何だ。俺たちがいては、都合が悪いのか?」
 下卑た笑みを浮かべて比呼が問うと、お幸は首を振る。
「こそこそと聞き耳を立てられるくらいなら、堂々と聞かれる方がまだマシってもんよ」
「何だ、つまらん」
 そう言いながら、比呼は胡坐を掻き、浩太は正座をする。
「じゃあ、話してちょうだい」
 お幸がそう言うと、善二郎は一つ頷き、話し始めた。
「まずは大稲荷についてなんだけど、一昨年までこの一帯に祀られてたお稲荷さんだって。ところが、一昨年から庚申様に鞍替えしたそうだ」
「庚申様? ずいぶんな心変わりね」
「勿論、これにはちゃんとした理由があるんだ」
「というと?」
「その年に、奇妙な事件が起こったんだ。ある日人がふらっと消えて、数日経つと体の一部だけがなくなった姿で発見されるってね。その時は、場合によっては殺されていたり、発見が早いと助かったりっていう感じだった。ところが、その事件が長いこと続いた」
「どれくらいですか?」
 珍しく浩太が口を開くと、善二郎は少し上を向いて考え込む。
「確か、半年くらいって言ってたかな。で、その時に一人の坊主が来た。坊主曰く、それはこの土地に祀られている狐が悪さをしているんだとか。それで、町中は大騒ぎ。次から次へとお稲荷さんの社は壊され、それを阻止しようとした人たちは八分にされてってね。その社を守ろうとした人たちの中に、件のおくめがいたそうだ」
「おくめってのは、誰のことだったんだい?」
「このおくめって言うのは、吉兵衛の母親だそうだよ。それで、社を壊そうとする者の中に、吉兵衛の父親である勘兵衛がいて、二人はこの件で激しい夫婦喧嘩をしたそうだよ。そして、その末に、おくめは自殺したんだ。ただ、噂じゃあおくめは、自殺じゃなく他殺だって話もあるけどね」
 口元を歪め、少し笑みを含んだ声で善二郎はそう言った。
「下手人は?」
「吉兵衛の父親、勘兵衛だって意見が大半」
 善二郎がそう言うと、お幸は少し首を傾げる。
「他に候補がいるの?」
「あと、甲兵衛や吉兵衛、家族ぐるみだって説もある。それとあと一人、キネ」
「キネって?」
「勘兵衛の弟の妻で、おくめと仲が悪いことで有名だった。まあでも、こっちは既に死んじゃってるから、詳しいことはもう分からないけど」
 それを聞いて、お幸はあることに思い至った。
「まさかそのキネってのは」
 言いかけて善二郎の方を向くと、善二郎は頷いた。
「行方不明になって、先日死体があがった。キネは右の耳たぶにほくろが二つ並んでるっていう特徴があったから、すぐに身元が割れたそうだ」
「なるほど。一人目ってのがキネだったってことね」
 お幸がそう言うと、善二郎は頷いて、それから指を一本立てる。
「それで、もう一つ。最近勘兵衛が、旗本柳原重友のところに出入りしてるって話だ」
 それを聞いて、比呼が面食らったような表情を浮かべる。
「柳原? あの寺社奉行の?」
「あら、知ってるの?」
「ああ。柳原重友っつったら、今時珍しいくらい贅沢や欲っていうのを嫌うことで有名で、二、三年前にどうしてもと頼まれて、寺社奉行になったって男さ」
「その柳原と勘兵衛がつながっているらしい」
「何だか怪しい話ですね」
 浩太がそう言うと、お幸はにんまりと笑みを浮かべ、立ち上がる。
「そうね。でも、家捜しする価値はあると思うわ」
 そう言うお幸を見て、比呼は呆れたようにため息をついた。
「お幸、それは止めといた方がいいぞ」
「あら、どうして?」
 楽しげな様子を隠そうともしない姿に、比呼は顔をしかめた。
「どうしてって、お前、狩野の眉間のシワがだな」
 そう言いながら、自分の眉間を人差し指で押していると、お幸は先ほどとは打って変わって、厳しい表情で比呼を見る。
「比呼、いい? あの女が、あの依頼を私に渡したのよ。絶対にごまかしようのない、決定的な証拠を挙げろっていう依頼をね。私は、それを探してるだけよ」
「だけどなあ」
「大丈夫よ。それにね、比呼。私を誰だと思ってるの?」
 そう言われ、比呼は長いことお幸を見る。
「…………かつて江戸城に忍び込んで、将軍を脅かした、女天狗様」
 苦々しそうな表情を浮かべながら答えると、お幸は満足げな笑みを浮かべる。
「分かってるんなら、余計な心配はしないでちょうだい」

 翌日の夜半を過ぎた頃、お幸は柳原邸に忍び込んだ。
 柳原重友の邸宅に忍び込むことは、呆気ないほど簡単だった。それもそのはず。この日柳原家は、家族揃って出掛けることになっていた。なので、家には使用人が数名、詰めているだけだった。
 足音や気配といったものを絶って、お幸は邸内を歩き回った。途中、何度か使用人と遭遇しかけたが、その度にどうにか切り抜けた。
 仏間に来て、お幸は奇妙なことに気づいた。何か、血腥い臭いがするのだ。そして仏間を歩き回ると、一枚だけ、他より硬い畳があった。それを床から剥がすと、そこには引き戸があった。
 物音を立てぬように、そっと引き戸を開ける。すると、中から強い臭いが辺りに立ちこめる。それに僅かに顔をしかめながら、お幸は引き戸の向こうをのぞく。よく見ると、引き戸の下には階段があるようだった。
 それを認めて、お幸は口の端に笑みを浮かべる。
「見ィっけ」
 そう言いながら、お幸は懐から火打ち道具を取り出し、灯りを点ける。そしてそれを持ち、お幸はその階段を下った。
 階段を下りれば下りるほど、臭いは強くなっていった。一番下に着く頃には、お幸も口を手で覆っていた。
 そこは、洞穴のようだった。ところどころで、石筍に水が落ちるような音が聞こえる。悪臭の元は、奥にあるようだった。お幸は唾を飲んで、足を踏み出した。
 歩を進める度に、足元から水音がした。
 幾分か進むと、目の前には樽があった。そんなに大きくない樽だが、少し年代を経ているもののように見える。そしてその樽こそが、一帯に漂う悪臭の原因らしい。
 お幸は思い切って、樽の蓋を動かした。すると、何かがびっしりと詰められているのが見える。灯りを近づけてみると、それは何かの塊だった。赤黒いその塊に、お幸は見覚えがあった。
「何で、これだけ臓腑があるんだか」
 そう言いながら、お幸は蓋を元の位置に戻す。その時だった。
 不意に、足音が響いた。それは、お幸のものではなかった。驚いたお幸は、慌てて樽の影に隠れた。
 足音は、この空間の入り口近くで一旦止まり、次に何かを押したようだ。石が動いたような音と共に、この空間の壁に、一斉に火が灯った。
「さて」
 意外なことに、聞こえた声は若い男のものだった。
 呟いてから、男はこちらに向かって来たらしい。男が動く度に聞こえる水音が、段々と近付いてくる。音が近付く度に、お幸は己の背を樽に密着させ、なるべく体が小さくなるようにした。
 音が止まったのは、お幸が隠れている樽の前まで来た時だった。しかし、今度は樽の蓋が動く音がする。そして、何かを食べるような音が背後から聞こえてきた。お幸の脳裏に、この樽に入った臓腑を食べる、若い男の姿が浮かぶ。
 その音は、長い間続いていたように思える。
 音が漸く止んだ時、お幸は強張っていた肩の力を抜き、そっと息をつく。しかし、その音は予想外に響いた。
「誰だ?」
 問われ、お幸は舌打ちをしながら答える。
「ただの泥棒さ」
「ほお、女か」
 喜色が浮かんでいるようなその声に、寒気が走った。
「出て来い。ナニ、悪いようにはせぬ」
「それって、典型的な悪役の台詞よね」
 軽い調子でそう言うと、相手の気に触ったようだ。辺りに、怒りを孕んだ声が響く。
「さっさと出て来い。でなければ、斬るぞ」
 鍔の鳴る音が聞こえ、お幸はため息をつきながら立ち上がる。
「こっちを向け」
 そう言われ、お幸は声の近い方を向いた。
 目の前には、異様な姿の男がいた。着流しを着て、腰に刀を差している。これだけならば、単なる見目麗しい若侍だ。しかし、目は赤く血走り、顔のいたる場所に赤い飛沫がついている。特に口元には、べったりと血がついている。よく見ると、手も赤く染まっているようだ。
 男はお幸の姿を見ると、下卑た笑みを浮かべる。
「女ァ、何故ここに来た?」
「私は泥棒だって言っただろう? 金目のものを探してたら、こんな薄ッ気味悪いところを見つけたのさ」
「ほお、そうか。して女、どうだ? ここは」
「胸糞悪いったらありゃしない。あんた、随分な趣味なんだねェ」
 すると、男はくつくつと笑い出した。それを見て、お幸は怪訝な顔つきになる。
「何よ? 何かおかしいことでも言ったかい?」
「いや、悪いな。何、勘兵衛も同じことを言ってたなあと、思っただけさ」
「勘兵衛?」
「知らないのか? この街じゃあ有名な呉服問屋だぜ」
 それから、男はにやりと笑う。
「——妻を殺した男だってことでな」
「ああ、それなら聞いたような気もするねェ」
 とぼけたようにお幸が言うと、男はにやにやと笑みを浮かべたまま、
「でもな、あの女を殺したのは勘兵衛じゃねェんだよ」
という言葉に、お幸は胡散臭そうな顔で男を見る。その様子に気をよくしたのか、男は心なしか声を低くして、話し出した。
「あの女はな、当時狐が憑いてたのよ。あの二年前の事件、あれはおくめがやってたことさ」
 それを聞いて、お幸は目を見開いた。すると、更に男は得意げに話す。
「驚きだろう? それで、旦那の勘兵衛は坊主を呼んで、相談した。そして、大稲荷様を捨てることになったのよ。だが、それでも狐はおくめから離れなかった。それを見て、坊主は勘兵衛に告げたのさ。もう、おくめごと殺すしかないとな」
「それで?」
「旦那も最初は渋ったが、やがてそれに頷いた。そしていざ決行という日に、おくめは行方不明になった。なんてこたァない。狐はおくめごと殺される前に、逃げ出したってわけよ。坊主の張った結界を食い破ってな」
 それを聞き終わっても、お幸の怪訝な顔つきは消えなかった。
 少ししてから、お幸は男を真っ直ぐに見つめ、口を開いた。
「でも、どうしてあんたがそのことを知ってるンだい?」
 すると、男は口の端を歪め、己の胸に手を当てる。そして、さも楽しそうに答えた。
「俺にもそのお狐様が憑いてるからよ。但し、俺はおくめと違って、自らの意思で憑かれた」
「自らの意思だって?」
 お幸は面食らったような顔をすると、男は嬉しそうに目を細める。
「ああ、そうさ。偶然にもあの日、俺はおくめを試し切りに使ったのさ。その時、狐はおくめの魂を喰らって、その後俺に訊ねた。力が欲しいかと」
「それで、あんたは欲しいと答え、狐はあんたに憑いたと?」
「そうだ」
「ならば何故、人の臓腑を喰らう?」
 それは、お幸の声ではなかった。だが、男は気づかないのか、それに答えた。
「狐の力を保つためさ。そのために何十人殺そうと、俺は構やしない。全ては俺が強くなるための手段だ」
 男が話している間、お幸は周りに目配せする。だが、それらしい人物は見当たらなかった。
「なるほど。そういうことだったのか」
 声が後ろから聞こえたような気がして、お幸は振り返った。お幸のいる場所から、大体十歩くらい離れた場所に、見覚えのある顔があった。
「善二郎さん?」
 声をかけると、善二郎はお幸の方を見た。その表情は、己の知ってるどれとも合致しないものだった。
「ああ、お幸さん。大変悪いですが、ここからは聞かれては困るので」
 そう言うと、善二郎は袖から一枚の扇を取り出した。そして一瞬でお幸の近くまで来たかと思うと、目の前を開かれた扇が遮る。
 お幸の記憶は、そこまでだった。

 次にお幸の意識が戻ったのは、日が昇ってからだった。
 目が覚めると、外から光が射している。どうやら、自分は長いこと寝ていたらしい。
 視界の端に、妙に見覚えのある着物が見えた。一見派手なその着物は、かつて己の友が好んで着ていたものだ。
 その着物を着ている人物は誰かと思い、視線を上げる。するとそこには、嫌というほど見慣れた顔があった。
 相手を確認してから、お幸は思わずため息をついた。
「あんたって、時々悪趣味よね」
「そうかしら?」
「そうよ」
 うんざりとした表情を露わにしながら、お幸は起き上がる。そんなお幸を見ながら、狩野はため息をつく。
「あなたの方が、よっぽど悪趣味よ」
「何処が?」
 不思議そうに問うと、狩野は顔をしかめる。
「お幸が調べろって言った、松田善二郎のことよ」
「ああ、あれね。何か分かったの?」
「ええ、とっても素敵なことがね」
 それを聞いて、お幸はきっと面白くないことが分かったんだろうと思ったが、とりあえず聞かなければ始まらないので、聞くことにした。
「どんなことが分かったの?」
「松田善二郎は元寺社奉行よ。残念ながら、二、三年前に行方不明になってるわ。何故か幕府はそれを隠そうとして、表向きは改易されたことになってるの。そしてその後釜に、噂の柳原が起用されたわけ。二日でこれだけ調べるのに、骨が折れたんだからね」
 それを聞いて、お幸はふと、自分が倒れていた日数を知った。
「ってことは、私は一晩倒れてたわけね。ねェお香(きょう)」
 珍しく昔の名を呼ばれたことに、狩野は驚いた。そしてこういう時は、大抵自分にとって訊かれたくないことを訊かれるのだ。
「あの後私はどうなったのよ?」
 思った通りに、自分が一番訊かれくないし、また答えたくもない質問をされた。なのでいつも通り、冷たく突き放すように答えることにした。
「知らないわ。ただ、私がここに来た時には、あなたはここで横になってたわ。あ、そう言えば、枕元にこんなのが置いてあったんだけど」
 そう言って、狩野は一本の扇をお幸に渡す。開いてみると、そこには桜の水墨画があった。
「何これ?」
「さあ、もしかしたら、善二郎の幽霊が残したものかもね」
「幽霊? 善二郎が死んだって言うの?」
「あら、そうは考えられないって?」
「ええ。本物の松田善二郎なら知らないけど、少なくとも私に接触してきた松田善二郎なら、まだどこかで生きてるわ」
「その根拠は?」
「あえて言うなら、あんたが比呼を信じきってるのと同じ理由よ」
 お幸はそう答えると、今度は立ち上がり、旅支度を始める。
「あら、もう行くの? せめてもう少し、休んだら?」
 狩野が表向き残念そうな表情でそう言うが、お幸はさっさと木箱を背負う。
「もう行かないと、追いつかないからね。あ、ここのお代、払っといてね。それと、報酬はまた後日、ちゃんとあんたのところに取りに行くから」
 それだけを言うと、お幸は窓から飛び出した。
 それを見送ってから、狩野はため息をつき、立ち上がる。そして窓まで歩み寄ると、その向こうを見た。そこから見える風景の中には、既にお幸はいなかった。
「あれ? お幸さんは?」
 やって来たちよを見て、狩野は窓の向こうを指差す。

 山中に、侍と山伏がいた。
「それにしても嘉応、お前も隅に置けない奴だな」
 山伏が揶揄するように言うと、侍は首を傾げた。
「何がだ?」
「あの女だよ。何も隠さなくてもいいことを、聞かれたら困るとか抜かしてたじゃねえか。そんで気絶させて、ちゃんと宿まで送るだなんて、普段のお前からは考えられねえな」
「ああ、あれか。あれは違う。彼女に桜花を会わせるのはどうかと思ってだな」
「やっぱり知られたくないんじゃねえか。第一、最初からおかしいんだよ。いつもなら臆面なく、本名を言うくせに、今回は松田善二郎なんて、いもしない人間の名を言ったじゃねえか」
「彼女が社屋と繋がっていると知っていたからな。だから」
「違ェよ。いつものお前なら、そんなこと気にしないだろうが」
 山伏がそう言うと、侍は顔をしかめる。
「もういいだろ。どっちにしろ、お前には関係ない話だ。それに、今日から久々の休暇なんだ。気分よく出掛けさせてくれ」
 すると、山伏はまた揶揄するような口調で言った。
「そうそう、それもおかしいよな。お前が休暇を取るなんざ、一体何年ぶりだ?」
「別にいいだろう。今、うちに回ってくる仕事は少ないしな」
「まあそうだけどよ。でもお前、休暇中はどうするんだ?」
「ん? そうだな、旅でもするかな」
 それを聞いて、山伏は怪訝な顔になる。
「旅ィ? 今でも、年がら年中旅ばっかじゃねえか。たまには実家に帰ったらどうだ?」
「道連れがいたら、随分違うさ。それに、実家にもいつも帰ってるじゃないか」
「いや、そうだけどよ。ってお前、道連れ? 誰を道連れにするんだよ?」
 侍はそれを無視して、林の向こうにある、街道の方を見た。
「あ、お幸さんだ。もう元気になったのか」
 そう言って侍が立とうとすると、山伏は侍の刀を引っ張る。
「おい、無視するなよ。しかも、何処に行く気だ?」
「お幸さんのところだ。昨晩の説明もしなきゃならないし」
 引き止められたことに顔をしかめながら言うと、山伏は目を瞠る。
「おいおい、別に説明しなくてもいいじゃねえか」
「俺の気が治まらない。最終的には、彼女を利用したことになるし」
「いつものお前らしくねえな。まさかお前、あの女に惚れたか?」
「さあ、どうだろうな。ただ、興味はあるな」
 そう言うや否や、侍は駆け出した。一方、残された山伏は呆れたような表情で、侍を見送った。そして、侍の姿が見えなくなると、ぽつりと漏らした。
「それって、惚れてるってことじゃねェか?」
 当然、答える者はいない。

「お幸さん!」
 声をかけられ、お幸は振り返った。そこには、善二郎が笑顔で立っていた。
「あんた、何のつもりで声をかけたの?」
「何のつもりでって、お幸さんに話しかけるつもりで」
 少し首を傾げながら答えると、お幸は渋面に作る。
「私はあんたと話すことなんてないわよ。それに、行方不明の人間の名を名乗ってる男とは話したくないの」
 そう言ってさっさと歩き出すと、善二郎はその後をいそいそと追う。
「そう言わずに、昨晩のこと、知りたくない?」
「別にいいわよ。自己完結するから」
「いやいや、そう言わずに」
 その時だった。
 向こうの方に、人だかりが見えた。
「何かしら」
「ああ、あれは。ってお幸さん!」
 善二郎が何か言い掛けているのを無視して、お幸はその場所に近付く。
「何かあったの?」
 手頃な一人に問うと、人が死んでるんだと答えてくれた。
「誰?」
「ありゃァ、柳原先生のどら息子だよ」
「柳原先生?」
 お幸が怪訝な声を出すと、その横にいた男が口を出した。
「おや、六部の姉ちゃんは知らねえのか。柳原重友って言って、今は幕府のお偉いさんらしいな」
「それで、死んでるのは、その柳原先生のご子息だって?」
「ああ。重行って言ってなァ、そりゃあもう、街じゃあ有名な極悪人さ。切った張ったの沙汰は日常茶飯事、おまけに博打やらに手を出す始末。とても柳原先生の息子たァ思えない男よ」
「まあでも、今回のことで柳原先生は安心したんじゃねえか?」
「何でさ?」
「心労の種がなくなったからさ。噂じゃあ柳原先生は、あのどら息子のことで、随分とお悩みになってたそうじゃねェか」
「ああ、確かになァ」
 話を聞いていると、突然肩を掴まれた。見ると、善二郎だ。
「お幸さん、行こう」
 そう言われ、お幸はその場を離れた。
 少し行ったところで、善二郎の方を向き、その飄々とした顔を睨んだ。
「あんた、一体何をやったの?」
 低い声で問うと、善二郎は肩を竦める。
「何って、言われた仕事をこなしただけだよ。俺たちは狐を封じて欲しいといわれた。あの勘兵衛にね。ところが、あの狐と男の魂は、最早一つになりかけていた。だから封じることは難しくなったから、手っ取り早く、男ごと殺すって話になったんだ」
「勘兵衛がどうしてその依頼を?」
「敵討ちさ。知ってるだろう? おくめはあの男に殺され、その魂は天に昇ることなく、狐に食われた。だからさ」
「でも、あの家に出入りしてた」
「ああ、それは俺たちの手紙を渡してもらうためだよ」
「手紙?」
「そう。計画を実行する前に、重友の方に手紙を出したのさ。今からそちらのご子息を殺すことになるってね」
 それを聞いて、お幸は呆れたような表情になる。
「そんなの出してたの?」
「ああ。幸い、彼も息子が疎ましかったらしいね。まあ仕方ないか。己が嫌う、欲の権化みたいな男だったし」
 その言葉に、先ほどの会話が蘇る。
「それで、他には? ちよとか、吉兵衛さんとか」
「ああ、彼らは大丈夫だったよ。どうやら、あの男は一度目標を攫って、しばらくしてから殺すということをしていたらしいね」
「そうなの?」
「ああ。あのあと、色々と家捜ししてたら、あの地下の奥に牢屋みたいなものがあってね。その中にまだ殺されてない者がいたよ。その人たちは、ちゃんと家まで送り届けたよ。ちよさんと吉兵衛さんも、無事だった」
 それを聞いて、お幸は笑みを浮かべた。
「そう、良かった」
 それから少しして、二人は茶屋にいた。
「ところで、俺は今日から長い休暇なんだ」
 突然そう言われ、お幸は特に動揺した様子もなく、さらりと返す。
「そう、一体何をするの?」
「旅でもしようかと思うんだ。そこで相談なんだが、お幸さん、道連れになってくれないかな?」
 そう言われ、お幸は驚いた。思わず善二郎の方を向くと、結構真剣な表情があった。それをそのまま見つめるのも気まずいと思い、お幸は視線を元に戻した。
 少しの間、間が空いた。その間、二人の間に奇妙な雰囲気と沈黙が漂う。
 沈黙を破ったのは、お幸の溜め息だった。
「社屋を、知ってるでしょう?」
「ああ」
「あれね、私の幼馴染なの」
 それを聞いて、善二郎は目を瞠る。
「うそ」
「本当。意外でしょう? それでね、その社屋に、昔から言われてるのよ。本名を名乗らない男とは付き合うんじゃないってね。旅の道連れでも一緒。本名を名乗らない奴は、裏切られた場合に報復が出来ないからって」
 言ってる意味、分かる?
 遠回しに本名を名乗れと言われているのに気づいた善二郎は、苦笑しながら口を開く。
「俺は東山嘉応だ。素性は……」
「そこまで言わなくていいわ」
 お幸はそう言うと、席を立つ。
「旅の道連れなら、相手の素性なんて知らなくてもいいわ。そんなのは、無粋ってモンでしょう?」
 そして、振り返って嘉応を見ると、にやりと笑う。
「それじゃあ嘉応、お勘定よろしくね。私、先に出てるから」
「はいはい、分かりましたよ」
 そう言うと、嘉応も立ち上がり、代金を置いて、先に行っているだろうお幸を追うため、急いで店から出て行った。

今読むと、色々設定を出してはいるけど、活かしきれてないですねって気持ちになる。
引きからして、多分続きを書くつもりで、その中で色々やろうとしてたんだろうなあ。

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