雪女の珈琲屋

タイトル通りの話。
多分大学生くらいの頃に書いたもの。なんで書いたのか全く覚えてない。

 夏のこと、だったとは思う。あの日は酷く暑く、目に入った珈琲屋と思しき馴染みのない店に入った。そして水出し珈琲を頼んだのだ。私が馴染みのない店に入り、水出し珈琲を頼んだのは、その時しかないから間違いないだろう。
 その偶然ともいえる出来事こそ、私がその珈琲屋と思しき店に通うようになったそもそもの原因だ。

 珈琲屋と思しき店は、名を『珠沙』といい、看板に書かれた文字は酷く細かった。一マスの半分もないような細い文字は、まるで左右に違う文字があったような不自然さで、看板の中央で窮屈そうにしていた。
 外装も奇妙であった。何しろ、壁も屋根も、植物で覆われていたのだ。何処に窓があるかすら定かでない外装だが、一つだけ、ドアの位置だけはわかる。そこだけは毎日開閉されているから、植物もその枝葉を伸ばせないのだろうか。植物は蔓性のものだけではない。屋根の上には木のようなものまである。
 こういった変わった店は、私はまず入ろうとは思わない。
 だがこの日は酷く暑かった。太陽は燦々と輝き、雲一つない快晴だった。加えて風もない。そのためか、ゆらゆらと陽炎の舞う姿が視認できた。
 それほど暑いその日、私は図書館に向かっていたのか、学校へ遊びに行っていたか、その辺は定かではない。何しろ何年も前の話だ。
 とにかく、私はその日所用があり、外へ出て、恐らくその帰りだろう。でなければ、進んで外に出ようとはしない。
 その暑い日に、ふとその店を見て、怪しさを感じるよりも、店内はさぞ涼しいだろうと考えたのだ。幸い、その日は懐に余裕があった。さもなければすぐさま家に帰っていただろう。
 そういった偶然が重なって、私の足はその緑の喫茶店に向かったのだ。
 店に入ると、冷房がついているわけでもないのに、ひんやりとしている。冷房がついていないというのは、あの独特の冷風を肌に感じなかったからだ。窓には緑色の膜が張っているように見えたが、そうではない。外壁を覆っていた植物が、中からはそう見えるのだ。
 カウンターの向こうには、麗人がいる。彼女は私を見ると、風鈴のようなすずやかな声で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。今日は暑いですね」
「ええ」
「喉が渇いているでしょう。何がいいですか」
「水出し珈琲はありますか」
「ありますよ」
「ならそれを」
 水出し珈琲を頼んで、漸くカウンターのスツールに座る。彼女が出してくれた水を飲み、一息つく。
 ふと、この店の冷たさは外観だけでなく、店内の家具類にもありそうだと思った。このカウンターも椅子も、長い間冷房に当たっていたかのように冷たい。
 以前ある先生の講義で出た、輻射熱という単語が思い浮かぶ。こんなことを考えるとは、やはり私もあの先生の影響を受けているのだろう。
 詮無いことを考えつつ、ふと店内を見渡す。私以外、誰もいないようだ。
 不思議な店だ。冷房もなしにこんなにも冷たいのも不思議だが、何より客が誰一人としていない。こんなに涼しい店ならば、もっと人がいてもよいものを。やはりあの外観がいけないのだろうか。
「今日は、本当に暑いですね」
 思考に入り込むような声に、我に帰った。
「あ……、ええ。陽炎がゆらゆらと立ち上ってるのが見えますよ」
「まあ、陽炎。それじゃあ私は、外には出れませんね」
「日焼けが気になりますか」
 麗人でも、いやだからこそか、日焼けは嫌なのだろう。そう思ったのだが、彼女は首を振る。
「これが日に焼ける程度ならいいですが、私の場合は、溶けてしまうのです」
「いやそんなことは」
「いいえ、本当です。あなたもご存知でしょう?」
 そうは言われても、よくわからない。そもそも人が暑さで溶けるなど、聞いたことがない。熱さで燃えることはあるかもしれないが、しかし溶けるとは。
 困惑気味な私に気付いたのか、彼女はあらと目を瞠る。
「もしかして、あなた人間なの?」
「それ以外に何があるのでしょうか」
 答えながらも、奇妙なことを訊くものだと思う。
「まあ、それで。でもどうしてかしら。このお店、人からは見えないのに」
「ちゃんと見えていましたよ。あなたも奇妙なことをお聞きになりますね。もしや、あなた人ではないと仰るのですか?」
 思わず口にして、それからしまったと思う。私はなんと失礼なことを聞いたのだろうか。
 しかし彼女は気にしなかったようで、小さく微笑む。
 否定の言葉が出るだろうと思っていたが、彼女は風に揺らいだ花のように、微かに頷いた。
「ええ、そうですよ」
 目が丸くなるとはこのことだろう。
「確か、あなたがたの言葉でなんと呼んでいらしたかしら」
 思い出そうとしているらしい彼女は、その細い手でコップに黒い液体、私が頼んだ水出し珈琲だろう、それを注ぐ。
「ようかい、だったかしら」
 コップにストローを刺しながら、ぽつり呟いた。
 ようかい。溶解、熔解、妖怪?
 行き着いた単語に、彼女の顔を凝視してしまった。
 だが彼女の顔をよく見て、なるほど、人ならざるものならば、この美しさもありえるかと納得してしまった。彼女はそれほどに美しかったのだ。
「その中でも、私のような者は、ゆきおんなと呼ばれていました」
「雪女、ですか」
「はい」
 微笑みと共に、頼んだ水出し珈琲が出される。コップ自体が凍るような冷たさを帯びていたが、彼女が触れた場所はもっと冷たい。
 なるほど、雪女か。
「では、私も氷漬けにしますか」
 確か雪女とはそういった妖怪だった。
 私はこの時、彼女が雪女であることに驚きはしたものの、恐怖は感じていなかった。
 たとえ氷漬けにされようと、彼女が望むならば仕方ない。そういった諦観にも似た思いがあったのだ。
 恐らくかつて雪女たちに凍らされた者も同じことを考えたのではないだろうか。
 私が思索の中を漂っていると、彼女はそっと首を振った。
「そういったことも、若い頃はよくしました。けれど、この歳になると、もう振り向いてくださる殿方もいらっしゃらないし」
「そんなことはないでしょう。あなたは今もお美しい」
「ありがとうございます。けれど、たとえ振り向いてくださる方がいらっしゃっても、今の私には氷漬けなどできないのです」
「何故です」
「私たちは一度幸せになると、力が衰えるのです。そうして力が衰えると、周囲を冷やすことはできても、人一人を氷漬けにすることはできなくなるのです」
 話を聞いて、私は妬ましいと感じた。
 彼女の話し振りでは、彼女は一度、幸せになったのだ。私は彼女を幸せにし、彼女に雪女としての力を削いだ者が、妬ましかったのだ。
「あなたは、幸せになれたのですね」
「ええ、お優しい方がいらっしゃって。その方と子を作りもしました」
「それは、お相手の方が羨ましいですね」
「そうですか? でも、私とあの人では、寿命が違いすぎます。ですから、子が生まれてからすぐに、私はあの人のもとを去ったのです」
「けれど、その人はたとえ寿命は違えど、共に生きたかったのでは?」
「でも私は、あの人を失った悲しみを抱えて生きることなど、できそうにないと思ったのです」
 なるほど。彼女は失う悲しみを恐れ、その者と別れたらしい。雪女の寿命がどれほどのものかはわからぬが、失った悲しみと孤独を抱えて生きるには、長い年月なのだろう。
「その後、その人がどうなったかは?」
「さあ」
「知りたくはないのですか」
「もう随分と昔の話です。恐らくあの人は、既に死を迎えているでしょう」
「ですが、お子さんのことは」
「それは」
 言葉が淀んだのを見て、知りたいのだろうと察した。
 本当は、かつて連れ合いとなった男のことも知りたいのだろう。
「私が、調べましょうか」
 するりと出てきた言葉に、誰よりも私が驚いた。
「え?」
「気になるのでしょう? でも、あなたは雪女だから、この暑さの中、外に出ては文字通り溶けてしまう。だが私は人間だ。外に出ても溶けはしないし、何より自由に歩きまわれる」
「いえ、そんな。悪いです」
「遠慮なさらずに。ここで私とあなたが出会ったのも、きっと何かの縁です」
「でも」
「それに私も、知りたいのです」
「何をですか」
「雪女を幸せにし、子まで得た果報者が誰かを」
 本心からの言葉に、彼女は暫し口を閉じた。
 その間に、未だ冷たさを忘れない水出し珈琲を飲む。なかなかの美味だ。
 それにしても、この店は雪女である彼女が経営しているからか、まるで時が止まっているかのように感じる。
「お願いしても、いいのかしら」
 彼女が口を開いた頃には、珈琲は半分まで減っていた。
「ええ、構いませんとも。ただ、少しだけ教えてほしいことがあります」
「なんでしょうか」
「その人の名と、あなたの名前を」
「それくらいなら。私の名はひなといいます。あの人の名は」

 店を出て、私は家に帰ると、まず祖父に電話をかけた。
「もしもし、圭亮です。おじいちゃん、覚えてますか?」
『ああ、圭亮か。よく覚えてちょるよ。今日はどげした?』
「おじいちゃんは昔、自分は雪女の子だと言ってましたよね」
 もう随分昔の話だが、よく覚えている。
 祖父の家に遊びに行くと、その話をしてくれたのだ。
『おお、そうだぞ。なんだ圭亮、まだ疑っちょったのか』
「九州に雪女などいないと思っていたから」
『おれは昔、東北に住んじょったんじゃ。生まれもそっちよ。それから、親父が死んでから飛び出しちな』
「その話はまた今度で。それでおじいちゃん、確かおじいちゃんのお父さんは、弥平でしたよね」
『おう。おれの親父は弥平じゃ。母ちゃんはな、親父の話じゃ、ひなっちいう雪女じゃ』
 それを聞いて、やはりと思った。
 答えはとても身近すぎるところにあった。
「おじいちゃん、もしひなさんが生きてるとしたら、お会いしたいですか?」
『なんじゃ、圭亮おれの母ちゃんに会ったのか?』
「そうみたいなんです」
『そうかあ。なら、会っちみたいがなあ。母ちゃんはそりゃあめんこいって、親父がいつも自慢しちょったからなあ』
「なら、会った方がいいですよ。本人も、会いたいと言っていたし」
『そうかあ』

 暑い季節が去り、月が丸く肥える頃。
 私は祖父を連れて、その珈琲屋へ向かっていた。

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